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「まいどぉ おぉきにぃ、」
~ぷろろーぐ~

「まいどぉ おぉきにぃ、」
 関西の人ならこの意味はわかりますよね。
 標準語に訳すと「いつも、ありがとうございます」かな。
 はじめまして、おじさんですが、恥ずかしながらブログに初挑戦することにしました。よろしくお願いします。

「まいどぉ おぉきにぃ、」口頭では良く使う言葉やけど、文字に書くと難しい。多分、こんな感じでいいのかなと思うんやけど。関西の方々、いかかがでしょうか。
 ありがとう、という意味はもちろんやけど、「こんにちは」と同じような挨拶言葉にもなっている。特に商売関係者は良く使うかな。
 こんにちは、いつも読んでもらってありがとう、といった感じで書き進めて行きたいと思いますんで、たのんます。

 数十年生きてきて、いろんなことを経験し、過ごしてきた思いや、その経過の中で「いま」感じたことを、独断的な発想で考え、思ったことを書いていけたらと思う。
 関西弁風に書いているけど、関西の人が関西弁としてちゃんと読んでもらえているか、実は少し不安なのです。


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2008.04.30 / Top↑
~ぷろろーぐ Ⅱ

 数十年前に近畿地方の、都があったところで生まれて、育だったけど、思うところ(おいおい触れていきたい)があって今は東北の雪深い田舎に住んでいる。
 もう、かれこれ20年になるかな。
 それで、正確な(?) 関西弁を忘れかけている。

 この地へ来たころは60歳以上の年配諸氏の話す言葉の大半は理解不能だった。
「いま、なんて言ったの」
と考えているうちに会話が進み、どんどん置いてけぼり状態に陥り、まったくわからなくなってしまう。
 極端な方言(標準的な日本語とは違う単語)は少ないと思うが、基本的に関西弁とはイントネーションが違うし、標準語を短縮したような単語が多く使われる。

 会話の端々に僕の名前が聞こえてきて、みなさんがにこやかに笑っている。どうも僕のことをネタに楽しく会話しているようだけれど、何の話で盛り上がっているのかわからない。
「んだか?」
「えっ…」
何を聞かれているのかわからないから、答えようがない。あっけにとられていると、
「わかんねぇべ。あなたの生まれたところは、雪が降りますか」
横から別の人が
「あのへんなばゆぎなふらねぇべ」(たぶんこんな感じ)
「あっ、え、降るよ。少しは」
「…もるが、いぺぇ、…もらねぇが」(こんな感じに聞こえた)
「えっ、なんですか」
「つもるか、いっぱい、つもらないか」
「あぁー、ほとんど積もりませんね。5センチも積もったら記録的やなぁ」
「なしてこんたやまおぐさきだなよ」(なぜこんな山奥に来たの)

 最近では関西弁と東北弁と標準語(このあたりの学校は標準語で授業をする)が入り混じってしまい、自分でも「何か変な言い回しやなあ・・・」と感じる時がある。要するに正確な関西弁を少し(少し?) 忘れているようだ。
 家の近所の人たち、学校の先生、子供の親たち、仕事場でも、みんな普段は東北弁を話す。もちろん細君も。
 今では無意識に方言、訛りが出てくるんやけど、主体はやっぱり関西弁をしゃべっている。そんなわけで、もし関西の人が呼んでくれはると、変な関西弁になっているかもしれませんな。


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2008.05.01 / Top↑

~ぷろろーぐ Ⅲ~
 
 遠い昔に都があった、人口だけは政令指定の都会に住むことが好やなかっ
た僕は、なんとなく田舎に住みたいという願望が成人したころからあった。それは父親の実家のある山陰の小さな漁師町へ子供のころによく遊びに行ったことで芽生えたのかもしれない。

 目の前は海、後ろは山。決して高いわけではないから、子供でも簡単に登れる低い山々が連なり、西へも東へも隣の街へ行くにはその山を越えていかなければならない。
遊びに行くのはいつも夏休み、朝の早くから近くの神社へラジオ体操に行き、宿題を簡単に少しこなして、遊びはもっぱら海水浴やった。

 夜になると、人も車もまばらとなり、ネオンはもちろん無い。街灯もちらほらの真っ暗な世界となる。これが少年にとっては最悪のロケーションとなり、暗い部屋で一人寝ていると、窓横の木の上に何かいるんじゃないか、猫が屋根から屋根へ移る時の「パタッ」という音にビクリとして、あの網戸をスート開けて青白い顔をした少年が入ってくるんじゃないか、とさまざまなよからぬ創造力を膨らませてしまい、眠れぬ夜もしばしばあった。

 そんな時にかぎって夕飯後にスイカを食べ過ぎてトイレに行きたくなる。トイレは1階の一番奥にある。そこへたどり着くには、まず暗い階段を下りて、狭い廊下を超えて、居間を抜けて、また狭く暗い廊下を通りやっとの思いでトイレに着く。昼間の三倍は遠く感じたもんやった。

『なんで田舎の家はこんなに広いんや・・・』


 それでも、とにかく楽しかった、早く夏休みになってほしかった。親父の実家へ遊びに行くのがすごく待ち遠しく、できれば住みたいぐらいだった。
小学校に上がる前からひとり、祖母に預けられていたので、同年代の友達も数人いた。夏休み限定の友達である。

 成人してもそのころの想いが強烈に頭の中の隅々に残っていて、「隣はなにをする人ぞ」ではないが、人も、車もあまりにも多く、見渡す限りに家とビルばかりの都会から脱出したかった。



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2008.05.02 / Top↑
~ぷろろーぐ Ⅳ~

 昔、都があった街にすんでいたころの休日には、移動方法としては最も安上がりで、機能的だと思うバイクを駆って、できるだけ交通量の少ない北よりの道を走っていた。
(南よりは交通量が益々多くあまり行かなかった)
 この辺りでも一時間も走れば田舎は結構あるのだ。

 連休の時はユースホステルを利用して中部、東海、北陸、方面へ良く出かけた。秋から春に掛けては電車などを使っての移動となった。
 電車などの移動はつい欲張ってしまうわけではないが、どうしても窮屈なスケジュールになってしまう。
 地方のローカル線は本数も少なく、常に時刻表とにらめっことなり、分単位での乗り換え、移動が多かった。宿ももちろん予約しておかなければならない。そんな前準備もそれはそれで楽しいのだが、旅行途中で進路変更、宿変更、もちろん日程変更もできない。前準備したとおりの進路、宿、日程をつつがなくこなして無事に予定通り帰宅する。いわゆる旅行をしていた。

 そんなある日、乗り換えのために駅の跨線橋を小走りしていた時、花火大会のポスターが目に入った。同じポスターが何枚も貼られていて、走りながらでも今日がその日であることが分かった。

「花火、見たいなあ」 
 
 でもこのまま走って1番線に降りて、まもなく発車する列車に乗らないと今日の宿に辿りつけなくなる。でも目の前で打ち上げられる花火を見てみたい。
「1番線より○○行きの列車がまもなく発車いたします」
 無常なアナウンスが聞こえてきた。列車には間に合ったが、心ここにあらず。車内にも花火大会のポスターが吊り下がっていた。何で見に来ないんだよ。と言われているようだった。

 これを期に時間と日程にとらわれずに自由に旅がしたくなった。今日の宿は泊ろうと思った時に決める。今日は西か、東へ向かうのか、それはその日の朝に決める。そんな旅に出てしまったのが今ら二十二年前だった。
 全国を周り、なぜか東北の雪深い田舎に暮らしている。




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2008.05.03 / Top↑
「旅のはじまり」

高校1年生になった長男が、小学3年のころに、

「ぐるっと一周してくる」

と言って自転車に乗って何処かへ行ってしまう。まだ遠くへは行っていなかったようだが、自分ひとりで出かけて何かを感じてくれているだろうと思う。
 僕が同じ年頃に同じことをしていた。ちょうど小学3年生の誕生日に自転車を買ってもった。
(四十年も前のことである、まだクラスのみんなが持ってはいなかったように思う)

 夜になると家の中にしまいこみ、大事にしていた。いや大事にされていたのだ親父に、自転車が。その当時でもまだまだ、高価なものだったと思う。

 毎日のようにあちらこちらへ出かけて行った。親と一緒にバスや電車でしか行ったことのない所まで、かすかな記憶を辿って、道に迷いながら、覚えのある景色に出会えて感動していた。覚えのある景色の向こうにも道は続いていたから、次回にはその先にも行ってみた。今度はまったく未知の世界に入って行くわけだ。見たことのない風景の中をどこまでも前に進み、自分なりではあるが、新たな発見をして、また感動していつのまにか見覚えのある風景に出会って
「ここにつながっているのか」と、またまた感動していた小学生である。

 今思い出せば、さほど遠いところへ行ったわけではないのだけれど、小学生だった僕は知らない未知の風景に出会えることが、とにかく楽しくてしょうがなかった。

「こないだは右の道に行ったから、今日は左へ」
と、すごいスピードで行動範囲が拡がた。6年生ぐらいになると、日曜日にはおにぎりを作ってもらい、親父の地図を借りて、朝から出かけていった。僕しか知らない近道を(その頃はそう思っていた)見つけたり、素晴らしい風景を見つけて、自分で勝手に名前をつけたりして楽しんでいた。これが東北の雪深い田舎までの「旅のはじまり」である。

 近ごろは、子供がまきこまれる事件が多発していて、子供だけで何処かに行ったり、留守番させたりすることが不安なご時世だけれど、感性の豊かな今の年ごろに、自らの意志で、自らの足で、目で、耳で、また鼻で感じてほしい、自分なりに新しい発見、発掘をして、多くの感動を味わい、豊かな感性を養ってくれることを願う。

「ものより、思い出」 CMの受け売りですんません。



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2008.05.07 / Top↑
 「旅のはじまり 2」

 中学生になると、十段変速のサイクリング車を持っている友達との出会からますますエスカレートしていった。
 こずかいを貯めて五段変速ではあるがサイクリング車を買った。
(その当時はセミドロップと言って、ママチャリのハドルを上下反対にしたような形で、少し前傾姿勢で乗った。)
 しかし、すぐに中古のドロップハンドルに変えた。
(競輪選手が乗るような、かなり前傾姿勢になる自転車だ)

 これも十段変則のサイクリング車を持つ友人の影響やね。
 土曜日には半日で学校が終わり、午後からは地図を広げて明日はどこへ行こうかと、二人で思案していた。市内にとどまらず隣の市や町にも出かけていった。十段変速の友達といつも一緒だ。今のこの地のように冬に雪が積もることなどほとんど無かったから、冬もその当時の最大限の防寒をして、走っていた。あまり遠くへは行けないけれど。

 日曜日、おにぎりとお茶の入った水筒と、そして地図を持って、目的地目指して自転車を漕いだ。
 昔、都があった街は南を除く三方が山に囲まれているから、南方面以外の隣町へ行くときは必ず峠道があった。
 山道は厳しかった。まず五段変則の僕が音を上げて、自転車を押しながら歩く。さすがに十段変則。僕よりは長く自転車を漕いで坂道を登っていったが、まもなく、自転車から降りて二人仲良く押しながら歩いて進む。
 その横をバイク、車が走り抜けて行く。
「がんばれよー」
と時々声を掛けてくれるドライバーもいたけれど、愛想笑いをわずかに返すのが精一杯だった。
 
 峠付近の見晴らしの良いところで、にぎり飯をほおばれば、この世で一番の美味しいものを食べた気になる。

『空腹こそ最大の調味料』

とは良く言ったものだ。
 峠を越えれば後は下るだけ。この快感がまたすばらしい。先ほどまでの苦労が全て飛んでいく。最高に気持ちよい。
 ただ、この先にはまだ二箇所の峠が待ち受けている。もう二回の苦労を重ねて最後には長い下り道が待っている。
 車では、なかなか味わえない快感であった。
 今、この年になってからでは、なかなか味わえないよね、というより、その苦労を体が受け付けなくなっているのだから、しかたないわなぁ。




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2008.05.08 / Top↑
「旅のはじまり 3」

テレビのバラエティー番組で「はじめてのおつかい」というのがある。小さな子供たちが初めてお使いをしてくる様子を、カメラがこっそりと映して、番組のゲストと一緒にハラハラ、ドキドキして我子のことのように、驚き、肝を冷やし、感心するというものだ。

 人間は小学校を入る前から、様々な初めてを経験、体験しておおきく成長して行く。個々にそれぞれの初めてがある。

小学校六年生の春休み(正確には六年生になる前の春休み)に親父の実家である祖母の家へ、一人で行った。初めて一人で出かけた。駅までは送ってもらい、向うの駅までは迎えに来て貰ったが列車の中は一人である。山陰の小さな漁師町の小さな駅まで、ドン行(普通列車)にゆられて六時間、小さな駅までのはじめての一人旅となった。
小さい頃から何回もドン行にゆられて、祖母の家まで行っているうちに、『ガタンゴトン・ガタンゴトン・・・』とゆられて行くドン行列車は、僕には心地の良い大好きな空間となった。
だまって外の景色を見て、時々虫のなく声しか聞こえないような静かな駅に止まると、反対方向からけたたましい音とともに通り過ぎる特急列車を楽しむ。通り過ぎた後には何もなかったように虫が静かに鳴いていた。

『ガタンゴトン・・・』

を聞いているだけで、あとは何もいらなかった。

df50

 今でもあの『ガタンゴトン・・・』を聞くと心が休まる。
(今の電車達の『ガタンゴトン』は速すぎてダメだ)
 その頃のドン行は、先頭のディーゼル機関車や蒸気機関車が、ぶどう色の煤(すす)汚れした客車を引っ張って走るものだった。
 『ピィーー』と発車の汽笛が鳴り、少し間があってから『ガッタンゴゴットンガン』とゆっくりと動き出す。最後のガンは座席の木の背もたれに頭をぶつける音である。運転の上手な運転手は最後の『ガン』はほとんどなく静かに動き出す、しかし、そうでない運転手は『ガン』とおもいっきり頭をぶつける。子供の僕にはドン行が発車する時に起こる『ガン』の振動には到底勝ち目はなく、不意に襲ってくる動きにそのまま体を預けるしか術(すべ)がない。木の背もたれにかなり強く頭をぶつけてしまう。
 しかし、今の電車はとても静かに大きな振動も、音も、頭を『ガン』と打つこともなく『スー』と発車してしまう、あの『ガン』がとても懐かしい。

客車


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2008.05.10 / Top↑
「旅のはじまり3-2」

 ゆっくりと「ガタンゴトン」と動き出し、少しずつスピードが上がってくる。やがて

「ガタンガガタガタゴトン」

と複雑な音が鳴り響いてくる、ポイントの上を通過しているのだ。より複雑に長く響いてくる時は大きな駅を出て行くとき、小さな駅ではすぐに普通の「ガタンゴトン」に変わっていく。

 その当時の客車は乗降のためのドアを手動で開け閉めするもので、ドアが開いたまま動いていることはよくあった。そのデッキからもう一つのドアをあけて客室に入って行く。
 乗降用のドアを開けたままでこのデッキに立ち、ドアの横にある手すりにつかまり、体中に風を感じながら流れて行く景色を見ているのは、、満足感と充実感そしてなんとも心地の良いスリルを加味して味わうことが出来る。
 特に最後尾の客車は連結部分の幌のところにドアはなく、二本のレールが、右へ左へと緩やかなカーブを描き、見る見る後方へ過ぎ去って行く。少しの弾みで外へ投げ出されてしまうかも知れないスリルを味わえる。

最後尾のホロ


 最後尾のデッキに立ちトンネルに入っていくと、入り口の明かりだけが真っ暗な世界に浮かび上がってくる。そのトンネルがまっすぐであれば、入り口の形をした明かりが黒の中に、少しずつ小さくなりながらいつまでも見えている。そしてどこまでも小さくなって明かりが見えなくなったと同時にトンネルを出る。ゆっくりと

『ガタゴゴットン』

とポイントを通る音がする。祖母の待つ小さな駅に着いたのだ。
 六時間もの長い時間、たった一人で飽きもせんと、景色と『ガタンゴトン』を聞いて楽しんでいる小学生は、今で言うところの『鉄ちゃん』なのだ。
 
 現在では国鉄がJRになり、各地に新幹線、ミニ新幹線が延伸して、地方と都市が益々近くなった。たいへん便利である。しかし、いわゆるローカル線がほとんど無くなった。いたし方ないことではある。民営化された企業としては赤字路線をいつまでも放置しておくことはできない。



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2008.05.10 / Top↑
「旅のはじまり③-3」

 新幹線が開業してからの日本の鉄道は、とにかく早く目的地に行くことが至上命令のように、線路も列車も改革されていった。電車のスピード化が進んでいる。
 しかし、なぜか今ではローカル線の郷愁を求めて地方の鉄道に人気があるようだ。鉄道ファンも増えているという。三、四十年前には存在しなかった(たぶん?)

『鉄子(女の鉄道ファン)』

も多くなっているという。
 テレビの趣味を特集した番組も、鉄道関係が一番多い。

 数年前から、各地で蒸気機関車(SL)が復活して、定期的に運行されているところが何箇所かある。定期的といっても週末や、春夏などの学校関係の休みのころといった、人々が観光として移動する時期が多いようだ。

SL


 四十年来の鉄道ファンとしては、「SL」の走る姿が見られるのは、とてもうれしいことではある。
 昭和三十九年に新幹線が東京、大阪間で開通した。そのころからだろうか、いわゆる時代の波にのまれるかのように、都市に近いところから「SL」は廃止されていった。
 関西でも昭和四十七年に山陰本線から姿を消した。

 煙害や維持費の問題。経済が発展するとともに、速さ、快適さを求める国の政策として「SL」が各地から姿を消し、採算の取れないローカル線は廃止されていった。一部は第三セクターとして経営存続されたが、長続きしなかったところも多いようだ。
 輪廻転生と言えば少し大袈裟な話になるが、戦中、戦後の遺物のような扱いを受けてきた「SL」が、二十一世紀のいまでは地方観光の目玉的存在として、地方の経済発展に一役買っているのだ。なんとも皮肉なものではないか。
 どんなに高学歴で優秀な頭脳をお持ちの政府官僚諸氏にも、未来を予測することは叶わないのである。

 長年の鉄道ファン「鉄ちゃん」としては蒸気機関車が復活するなら、それに引っ張られる客車も当時のものを復活させてほしい。
 今の、青や赤い色の客車はあの真っ黒な蒸気機関車には似合わない。
 ぶどう色の煤けた車体、丸く黄色いぼんやりとした灯りの室内灯、手動の乗降ドア。

『ガッタンゴゴットン ガン』

発車の時に子供が『ガン』と頭を打ち付けるような木の背もたれの座席にしてもらえんやろか。

客車2





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2008.05.12 / Top↑
「旅のはじまり 4」

 小学校の3年生だったろうか、鉄道好きの友達が2人で、『鉄道クラブ』なるものを作っていた。鉄道が好きで趣味としていろんな知識を持っていた。蒸気機関車の『C57、D51(デゴイチ)』の『CとD』の意味とか、気動車(ディゼルカー)の『キハ82系(非電化区間の特急)』の『キとハ』の意味は何かなど、かなり専門的なことを彼らは知っていた。経緯は忘れたが3人目のクラブ員として入会したのだ、(登録されてしまった?)

 ノートに蒸気機関車のアルファベットの『B(動輪が2個)』から順に『E(動輪が5個)』まで書いてその横に『B20、C50、C51・・・・D51・・・・E10』と書いた。ディーゼル機関車、電気機関車、気動車、客車、貨車。
 友達のノートを丸写しに自分のノートに鉛筆で書いていった。(現存する)

 『鉄ちゃん』への道がこのとき始まったのだ。

 主な活動は近くを走る山陰本線へ蒸気機関車を見に行くこと。時刻表を見て、何時に上りの○○駅を出発する。それならば何時までにあの踏み切りへ行けば見ることができる。学校が終わって、その踏切へ行くのが日課となった。
 上り、下りの客車、貨車を何本か見ているうちに、
「次は下りの園部行き(京都府)客車が来る。今日は『C571』が来るんちゃうか」
一番詳しい『鉄ちゃん』が誇らしげに語った。すると二番目に詳しい『鉄ちゃん』が、
「ちゃうなあ、『C571』はおとといの下りに来たから、今日は、きいひんでぇ」
と切り返す。
「あっ、来た来た。『C571』やで」
と三番目に詳しい(三人しかいません)僕が覚えたての知識で、叫んだ。

 『C57』の何号機が来るかまで大体わかっているのだが、いま思えば山陰線で走っている『C57』蒸気機関車は何号機が使われているか、毎日見ていれば、だいたい覚えてくる。他の機関区への移動はあまり頻繁には無かったようだし、この周辺で汽車が走っていたのは、ここだけだった。
 蒸気機関車だけではない、ディーゼル機関車も頻繁に走っていた。むしろこちらの方が多かった。
 もちろん見ているだけでは飽き足らず、近くの駅から一駅だけ乗りにも行った。帰りはバスで帰ってくる。
 その時も、汽車が来る数十分も前から、いや何時間も前から駅に入り、来る汽車、通過する特急列車、貨車などを間近で見ては楽しんでいた。ただ見るだけ、カメラなどは小学校三年生では誰もまだ持っていない。

~つづく~



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2008.05.14 / Top↑
「旅のはじまり ④-2」

 クラブ員の重要な活動のひとつに、新聞のスクラップブックを作ることがあった。
 新聞に載っている鉄道関係の記事を切抜き、ノートに張っていくのだ。各地の路線で蒸気機関車が廃止されていく、「さよならSL」の記事、日立家電のスポンサーによる「ポンパ号」、どこかの百貨店で開催される「SL展」の広告記事、そして、毎日汽車を見に通った山陰線の「SL、さよなら運転」の記事。鋏で切った切り口も雑で、どれもが黄ばんでいるが当時のことが思い浮かんでくる。
 (全て現存)
 そのノートが小学校の「秋季大運動会」の記念品のノート。
 そして、なぜか最後のページには「山陽新幹線、岡山まで延伸」の記事だ。
 小学校三年生が少なくとも、新聞をペラペラと毎日めくり、見ていたのだという事実を今さらながら、自分自身に驚いている。いま、高校生の息子は、テレビ欄と、「こぼちゃん」しか見ない。

 とにかく、鉄道の記事なら何でも切り抜いていた。私鉄電車の脱線事故、大雪による遅れの記事、鉄道百年の特集シリーズ記事、そして廃止される汽車への異常なファンの行動を書いた記事。各地の路面電車の特集記事、廃止の記事。などなど、鉄道に関することは何でも切り抜いている。
 
 うっかりすれば見逃してしまうような、SL切手発売の小さな記事もある。小学生が新聞の隅々まで覗いて、鉄道関係の記事を探しては切り抜いていた。
 ある時、親父が見ていない新聞を先に見て、切り抜いてしまい、かなりきつく怒られたことを思い出した。あの当時はどの家庭でも、父親の権威は大きく、新聞、風呂、チャネル権は父親が一番だった。

 家には一台しかテレビが無いのが普通の家庭だった時代、我が家では八時までが子どものテレビの時間。その後は親父の時間。だから、土曜八時からの
「8時だよ全員・・」は特例だった。野球放送があるときは特例も特例にならなかった。
 一人一台のテレビを持っている今の時代、家族のコミニュケーションが希薄になっている一つの原因ではないだろうか。
「何で勝手に換えんねん」
「おにぃちゃんずるい、今度はうちが見たいの見るんや」
「うるさい、喧嘩すんにゃったら、ニュース見る」
 親父の一言で公共放送局に決まってしまった。

 「巨人、大鵬、玉子焼き」

僕よりは少し上の人たちの時代だとは思うけれど、我が家はもちろん

阪神タイガース』です。

 親父の影響をモロに受け継いでいる。



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2008.05.16 / Top↑
「構造改革」
 大きな課題にチャレンジ!
 元首相の小泉さんは様々な「構造改革」を打ち出し、日本中の人々の大きな反響と期待が政治を注目し、多くの支持を集めた。

 今までと違うことをして、より良いものにしていく。改革を推進するには、旧態依然とした体質への挑戦だと思う。
 ほとんど全ての新しい技術や発明を、誰よりもさきがけて成功させた人たちは、周りからは変人扱いされたりもする。しかし、そんな外野のことはおかまい無し。信念を持ち、自分を信じて成功へと導いていく。
 また、何ヶ月、何年もの期間をかけての成功裏には、会社やその上司たちの篤く大きな心があるからだろう。

 僕が現在住んでいる地域に「クチアンヴェイィ(少々違うかな)」という言葉がある。
 あまり良い意味では使われないようだ。口先だけ、言い回し良くじょうずに喋る、うそも方便、調子良い人と言った具合のようだ。しかし、この「クチアンヴェイィ」人が世の中をうまく立ち回り、そうでない人よりしょうしょう楽をして世渡りをしているような気がする。

 社会においても、職人といわれる人たちは腕が勝負、喋る必要なし、となると「クチアンヴェイィ」人にうまく使われて損をすることが多いように思う。時代劇にありそうな話だ。
 企業や役所でも、まじめにこつこつ働いている人は、喋りは苦手な人が多いのではないか、真剣に一生賢明がんばっているから、無駄口をたたかずに仕事をしている。そうでない人ほどいろいろと「クチアンヴェイィ」人が多いような気がする。

 「クチアンヴェイィ」

が必要な仕事もあるが、問題は企業や役所においての先輩、上司、といった上の立場の人が、「クチアンヴェイィ」人のいうことに、耳を傾け、取り上げることが多いのではないか。喋りが苦手でも真剣な意見は却下されて、同じ内容の意見をいっても「クチアンヴェイィ」人が話すとすんなり採用されたりする。そんな見極めができない先輩、上司が多いから、この国はダメになったような気がする。特に役所は,「見て見ぬ振り」「馴れ合い的慣習」「見栄」「出るくいは打たれる」
「クチアンヴェイィ」だけでエラクなった人も多いのではないか。
「クチアンヴェイィ」を見極めて正しい意見を見出していかなければ『構造改革』は成しえないだろう。

『昔のやり方が、すべて良いとはかぎらんではないか』

また、何かの時代劇の受け売りです。すんません。


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2008.05.19 / Top↑

「まもなく五十?」

 歩いていると腰が砕けたように、急に力が入らなくなって[ガクガク]と座り込んでしまいそうになる。もしかしてギックリ腰になる前兆か、と十五年前の悪夢が蘇る。
 テニスコートから救急病院へ直行して、十日間の入院をしてしまったあの事件からちょうど十五年になる。
救急病院の入り口で車から降りるのに五分はかかっただろうか。
「そこに外来用の車椅子がありますよ」
 親切な方が教えてくださっても、その車椅子に座ることができない。車の座席からやっとの思いで激痛と戦いながら立ち上がったのである、車椅子に座るのも死に物狂いで激痛に耐えなければならない。だからこのまま友人の肩を借りて診察室へ歩いたほうが、時間はかかるけれど激痛は走らない。
 どうせ診察室に入ったら診察用のベッドに上がらなくてはならない、激痛が走るのをできるだけ少なくしたい。そんな思いが無意識にはたらいた。
 ベッドにあがることはできなかった。サッカーの試合中に負傷した選手がフィールドの外に運び出されるときに乗せられるようなタンカーを縦にして、それを僕の背中に当ててゆっくりと倒し

「ゲェグァーー!」

4人がかりでタンカーごと診察台へあげてもらった。

「ヴァーグェー!」

とにかく少しでも体を動かそうものなら、何をやっても激痛が腰の左側の一点に走る。

「ゲェグァーーー!」
とにかく痛い。あの時は多くの方にご迷惑をかけました。
 あの時以来、何かと腰の具合が思わしくないことが多くなり、疲れが溜まってくるとなんとなく腰が重くなってきたり、それを無意識に庇うと、背中の他のところが痛くなったりして、何回も整形外科に通った。

 腰の状態を良くするには適度の運動がよく、特に腹筋を鍛えて腰への負担を少なくすること、できるだけ身体を動かすことを心がけた。せめて一週間に一回は何かスポーツをすることを目標にした。
 四年ほど前からはママさんバレーの練習相手に参加している。会社の人たちの中では運動をしているほうではある。

 しかし、あの事件からちょうど十五年がたち、入院こそしないけれど歩くのも困難な状態が先日から続いていた。
「んー、ここの背骨の骨と骨の間の軟骨が少し減ってきていますね」
レントゲンの写真を見ながら医者が言った。
「まもなく五十歳ですかあ、まあそろそろ身体は、あちこちがねえ」
要するに年をとったのだからあまり無理をするなと言いたいようだ。
「しばらく痛みがなくなるまで安静にして寝ていてください」
確かに人生の半分は終わったと思う。しかし、この程度のことで歩けなくなるほどのことになるとは、われながら情けない。こんなにも体力がなくなってきているのだ。
 
 冬には毎日の雪寄せがきつかったのか三年前は左手、昨年はその左手を庇ったからなのか、右手が腱鞘炎となり八月ごろまで整形外科に通った。年配の人が多い整形外科には僕は若い方だ。医者も看護士も事務員も顔なじみになってしまった。
 三十路を超えたとき以上に、四十路は角度の大きな坂を歩いているような感覚をおぼえている。
 謙虚に受け止めて、対策を考えよう。




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2008.05.20 / Top↑


 僕の一人旅第二弾は中学に入ってからの秋だったと思う。父方の曽祖母の五十回忌に父の代理で山陰の漁師町、親父の実家へ行ったときだろうか。あの春休みから半年後である。親父が忙しく、日曜日と祝日の連休なので急きょ僕が行くことになり、土曜日の午後に家を出た。駅を三時過ぎの急行に乗れば、七時過ぎには海の見える駅に着く予定だ。

 駅まではバスに乗り三十分ほどで着くから、自分なりに逆算して家を出る時間を考えていた。前回の初の一人旅より少し成長したのか、余裕が出てきてゆっくりと準備をして、予定より少し遅く家を出た。
 そんな時は少しずつ次の段取りが遅れてくるもので、バス停のちかくで信号待ちをしていると、目の前を駅へ行くバスが通りすぎて行き、十分に一便ぐらいにバスが来るにもかかわらず、なぜかその時だけは二十分後に次のバスが来た。道路も混んでいて駅に着いたときが、三時過ぎの急行の発車する時間だった。

 しかし、焦らなかった。数年前に漁師町の従兄弟が、三回か四回乗り換えて気の向くまま予定も立てずに昔、都のあったこの地へ来たことを思い出し、
「何とかなるさ」
と、かなり楽天的に次のドン行にとりあえず乗った。三時四十分ごろだったろうか。この時、時刻表を確認しないでしまったのがトラブルの発端となった。

中学一年生の怖いもの知らずの向う見ず
気まぐれ旅のはじまりだ。




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2008.05.21 / Top↑


 気動車(電車のように機関車はないが、電気ではなくディーゼルで動く列車)の五両編成ぐらいだっただろうか八割ぐらいの混みぐあいだった。一駅一駅止まるごとに降りる人はいても乗ってくる人はほとんど無く、列車の乗客は減って行くばかりだった。
 十月も近い秋の夕暮れは早く訪れてくる。この列車の終着近くになると、とっぷりと日が暮れて、あたりはだいぶ暗くなった。車窓からは遠くに点在する民家の明かりがぽつぽつと見えるぐらいで、他には何も見えなくなり、車内の乗客もかなりまばらになってきた。少し心細くなって来たけれど、そこは中学生としてはヤセガマン。

 五時半ごろにこの列車の終着駅に着いた。列車は海の見える駅までの三分の一ほどのところの駅までしか行かない。とりあえず先へ進めばそのうち目的地に着くだろう、何とかなるだろうと言う気持ちだけが先行して、 
「今日中に向うに着けばエエニャから」

 小さな駅舎に駅長さんが一人だけで、他には誰も居ない小さな駅。下車した人はほとんど駅から出て行った。ホームには十人も入れば一杯になるような待合室があり、一本だけの暗い蛍光灯が点いていた。駅前にはまばらに家があるだけで、駅前商店街と言った賑やかなものは何も無かった。駅舎の反対側には山がせまり、かすかに月の出ていない暗い空と山の境が確認できた。とにかく真っ暗だ。

 駅舎に向かった最後の一人が改札口から出て行くと、切符を集めていた駅長がゆっくりと僕の方に寄ってきた。
「乗継ですか」
「はい」
「次は六時三十分まで来ないですよ。京都駅からきます」
 と言うことは慌てて乗らなくても、次の列車に乗ればよかったのだ。こんな真っ暗な田舎の駅で一時間も待たなくてはいけないのか。

『ブアーーーンー』

 乗ってきた気動車が京都駅めざして発車していった。ますます静かになった。

  つづく




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2008.05.21 / Top↑
気動車


 広さが六畳ぐらいのホーム上の待合室に、建物の端から端まで、作り付けの木のイス(縁台のようなもの)があり、蛍光灯は一本しか点いていない。駅舎にも薄暗い蛍光灯が数本点いているが、今にも切れてしまいそうなのが二本点滅している。時々,烏のような鳴き声が「バカア」と聞こえてくる。

 九月末の山里の夕暮れは、少し肌寒く風が冷たい。待合室の木戸が長年の風雨に晒されて細く薄くなって、ガラスが枠からはずれてしまいそうなぐらいに、少しの風でガタガタと音をたてて揺れている。戸の揺れる音と時々聞こえてくる烏のような鳴き声以外には何も聞こえてこない。僕一人だけがそのイスに座り、次の列車が来るのを待っていた。

 突然ガラガラと木の戸が開いた。飛び上がるような驚きを、声を出さずに身体が感じた。身体の全体が鳥肌状態に陥ってしまった。
 なぜか、上半身が起立状態で、両方のこぶしを硬く強く握り締めて、それぞれひざの上にきちっと置いたまま。顔は、何も見えない窓の外の一点を見つめるように、真正面を向いて、目だけは入り口の方向へゆっくりと動いていった。

 横目つかいの視線に入ってきたのは、大きな荷物を担いで髭を伸ばし、薄汚れた服を着た大きな人が、入り口の木戸を前屈みになって入ってくるのが見えた。
 山からいま帰って来ました、といった風の大柄なその男の人は、木の戸を閉めながらチューリップハットを片手に持って頭から脱いだ。チューリップハットを被っている時はきづかなかったが、髪も不精に肩まで伸び放題だ。前髪も伸び放題でその隙間から顔がのぞいていた。黒ぶちのメガネをかけていた。
 ドキドキしながら声も出さず、座ったまま身体が動かない。目だけがその大きな身体の男の人をキョロキョロと見つめていた。



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2008.05.23 / Top↑


「こんにちは。いや、こんばんは。次の電車はいつくるのかな」
 とてもその風体からは想像もできないような細くトーンの高い声に
『エッ!何か期待はずれ』
 がちがちに緊張していた僕の体を一瞬にしてほぐしてくれた。

「電車は来ません」

「エッ、こないんですか。困ったなあ」
 もしかしたら今にも泣き出すのではないかといった困り果てた話し方になった。
「ここは電化されていない線路なんで、電車は来ぃひんよ」
「それは困った、そうすると今夜はここで野宿することになるのかなあ」
 ますます、声のトーンが高く細くなってきた。
「いや、そう言う意味とちゃいます。一時間後には次の列車が京都から来ますよ」
 狐につままれたような顔つきで僕を見つめてきた。良く見ると黒ぶちの眼鏡の奥には小さく丸い目が見える。かなり度の強い眼鏡のようで、眼鏡の中に見える顔の輪郭はかなり小さく、不自然に見えた。
「電気で走る電車は来ぃひん。列車は来る」
「あぁ、良かった。じゃぁ野宿はしなくてもいいんですね」
 にっこりと笑いながらありがとうを言ってくれた。

 東京から来たというその山男風の人は、全国を旅していて、丹波地方へは二回目の訪れだと言う。いつもこの大きなリュックにこの服とこの帽子をかぶって、お金が無くなるまで旅を続けるのだそうだ。
 お金がないからヒッチハイクで移動して、無人の駅や神社や寺に野宿しながら、気の向くままの自由な放浪の旅人、と自らを語った。今日はこの先の小さな山村の友人の所へどうしても行かなければならないので、僕が乗ってきた列車に京都から乗って来たようだ。

「ヒッチハイクはね簡単だよ。ドイツに行った時はベンツにだけ手を上げて乗せてもらうんだよ。どうせ乗るのなら高級車がいいじゃない」
 世界中を旅した話を細い声で一人、話し始めた。
「へー、へーすごいなあ」
 この言葉しか返すことができないほどの感動と、驚きの連続が続いた。
「でも、冬のヒッチハイクは大変なんだよ。せっかく乗せてもらったのに居眠りできないでしょ、あの暖かい車内は睡魔との闘いだよ。足に青あざができるまでひねり続けて起きているの。居眠りしないのが最低限の礼儀だからね」
 切れかけの蛍光灯がある薄暗い山里の小さな駅にいることを、無精ひげの旅人は忘れさせてくれた。
 ほんの数分の間だけの会話しかしていなかったかのように時の経つのが早く、話の途中で福知山行きの列車に乗る人たちが駅舎を抜けて、ホームに入って来た。
「まもなく二番線に列車がまいります」
 構内放送が流れて荷物を片手に待合室から二人並んでホームへと歩いた。この後も、放浪の旅人は多くの話を聞かせてくれた。その人が降りる駅まで。

 このときの出会いが東北のこの地までたどり着いた原点かもしれない。あの人は今も旅をしているのだろうか。僕は東北のこの地を旅の終着点にしている。
 
 今のところ。




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2008.05.24 / Top↑
『優良ライダー』

 先日、緩やかなワインディングロードを(毎日、仕事で通るいつもの峠道)走っていた時のことだ、僕より3台前の軽トラックが少しゆっくりと走っていた。そのためか、僕の後ろにも4,5台の車がつながっていた。この道は、はみ出し禁止で法廷速度は50キロ。追い越そうにも先の見通しはあまり良くないカーブがつづく、生活道路だから、車の通行量も比較的多い国道だ。

 そのときだった、バイクが反対車線を、すいすいと後ろの車を追い越して近づいて来るのが、ミラーに写った。1台や2台ではない。数台の年代ものの古いバイクが、オレンジ色のはみ出し禁止の線を越えて、ぶっ飛んできては、追い越していった。2,3台づつが次々と追い越して行く。対向車が来れば、車と車の間に無理やり入ってやり過ごす。僕の運転する車の目の前にも割り込んで、対向車をやり過ごし、すぐにはみ出して加速して、前の車を追い越して行った。

『バカやロー、調子に乗るなよう!』


 思わず叫んでしまった、聞こえるはずもないのに、思いっきり大きな声を出してしまった。巷で社会問題となっている二十歳前後の若者たちの、暴走行為と一緒ではないか、運転しているライダーの顔を覗いて見ると、僕より年上の人たちばかりのようだ。

 あなたたちは愛するバイクを毎日のように磨いて、きれいにして、たまの休暇を仲間と一緒に遠い所(関東周辺のナンバープレートだった)からツーリングに来たのではないのか。

 ずっと手前で休憩中のあなたたちを見かけたときは、とても羨ましく、すてきな人たちに見えた。みんなが少し古いバイクにまたがり、スキッとしたライーダースーツに身をつつみ、さあ出発だ、といった感じだった。とても素晴らしい光景で、年を重ねても輝けることは素晴らしいと思った。
 そう、あなたたちは「優良ライダー」ではないのですか、巷の暴走族たちが、バイクのイメージを悪くして肩身の狭い思いをしている人たちと共に、心よりバイクを愛し、バイクと一体になって走ることの素晴らしさを、「バイクは良くない」と思っている人たちに理解してもらい、

『一度乗って見たい』と思ってもらわなくてはいけないのではないのか』
 とても残念である。

つづく


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2008.05.26 / Top↑


 ここで問題?
『交差点であなたは直進、対向車は右折しようといています。どちらが優先でしょう』
 私はあなたが優先だと思う。しかし、対向車が優先というローカルルールが存在する地域があるようだ。
 コンビニの駐車場に車を置けるのに、入り口付近の歩道に停める、障害者スペースに堂々と停車。運転中に窓から、投げられる火の付いたタバコ、止まれを無視して飛び出す原付バイク(目の前で目撃した。その人は右から来た車に激突して、道路に投げ出された。幸い軽症ですんだ。) 無灯火の自転車(田舎は暗く車通りの少ない道が多いから、とにかく発見が遅くなる)、車道を車の直前横断する歩行者。

 こんな事例はほんの氷山の一角に過ぎない。とにかく車、バイク、そして自転車、歩行者までがマナーが悪くなった。こんな田舎でも危なくて、安心して通行できない。どんなに適切な速度で安全運転していても、相手が向かってくることもあるから、なんともしようがない。

 この辺りの中学生が自転車を運転する時は、ヘルメットを被り、どんな交差点でも降りて渡る。車が止まれの標識で止まっていても、車が通り過ぎるまで渡らない。すごく安全運転なのだが、なぜか高校生になると、突然悪くなるのだ。このギャップはなんでなんやろう。
 手本となる大人が正しい運転マナーを守らないからなのか、中学校では学校で決まっているからと言って、校則を守るのと同じ感覚なのだろうか。
 もう少しまじめになろうよ。僕も気をつけよう。





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2008.05.27 / Top↑


 今回は、僕の旅以外のこだわりについて少し目をかして下さい。
 次女が生れる前だからもう十四年目になるかな、禁煙をしてから。もともと本数は少なかったから、比較的らくに止められた方ではないだろうか。
「今日から禁煙」
 なんて始めれば、必ず苦しんで、かえってストレスが溜まって胃を痛めかねないので、少しずつ減らして行って、最終的には禁煙に成功した。今回はこの禁煙についてではない、タバコを吸っていた頃のこだわりについてだ。

「タバコにしよう」
 とこの地の人たちは休憩の意として、普段から使う。女の人もタバコを吸うわけではないが、休憩をする時には
「タバコだぁ」
 と声をかける。
 もう、時効だけれども十八歳からタバコは吸っていた。そして、二十歳の頃から、この地の人たちの言う「タバコ」の意と同じような気持ちで、タバコに火を点けた。
 タバコを吸おうと思った瞬間から休憩、イップクのモードに入るわけである。
 吸うタバコに、まずこだわる。白いフィルターは柔らかく、唇にくっ付いてしまうことが嫌いなので、茶色いフィルターのものを選んだ。その当時の茶色のフィルターは「ハイライト」か「キャビン」ぐらいで他には値段の高い洋モクしかなく、選択の範囲は限られていた。数年後には対米貿易黒字の関係なのか、国産品と同じぐらいの値段になって「マールボロウ、ラッキーストライク、キャメル、ラーク」などを吸っていた。

 次に火を点けるものにこだわる。ジッポーのオイルライターがベストだけれど、親父が使っていた国産のオイルライターを使っていたこともある。ライターがなければ(オイル、ガス切れ)マッチにする。マッチの場合は点けかたと消し方にカッコをつける。
 1940年代を舞台にしたアメリカ映画に小雨降る夜のネオンの下で、ツバ付の帽子に、ビシッとスーツに身をまとい、遠くに逃げ去る犯人を目で追いながら、ゆっくりと銜(くわ)えたタバコに火を点けるハンフリー・ボガートのイメージで火を点けて、そして消す。いわゆるナルシストである。
 いつもハンフリー・ボガートのイメージでタバコに火を点けるわけではないが、ほんの五分ほどの「イップク」の時間を頭の中から足の先まで休めることができる。その当時のストレス解消法の一つなのだ。百円ライターは絶対に使わない。

 おねいさんが横に座る飲み屋さんに行くと、タバコを銜(くわ)える瞬間に火を点けてくれる。おそらくどこの店でもそうだろう。時には、おねえさんの手元近くの見えにくい位置に、箱から半分だけ出して置かれたマッチで、またはブランド物のスマートなライターで、しぐさもあざやかに美しく差し出してくれる、気持ちのよいものだ。
 百円ライターで炎の大きさを最大にして、目の前で「ボッ!」とやられたのじゃ
「二度とこの店には来ないから」
 と怒鳴ってやりたくなる。
こんな僕のこだわりは、変だろうか。
 もちろん、灰皿のない所では吸わないようにしていたつもりだ。
 最低限のマナーだから。


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2008.05.30 / Top↑
 もう六月、今年も半分が終わるところである。
 それなのになんだか最近の天気はおかしい。いまだにストーヴを片付けられないでいる。最高気温が二十℃を超える日がほとんどないからだ。世間では地球温暖化、暖冬などと、暖かい表現が多いが、今の東北は寒い。日中はストーヴを焚き、夜、寝る時は毛布を掛けている。

「どこが地球温暖化なんや」
 と叫びたくなる。

 東北地方などの雪が多く降る土地のひとたちは、それ以外の地域の人たち、(日本の人口の七割から八割ぐらい(?) の人たちが暮らしているのではないだろうか)よりは、春がとっても待ち遠しいのだと思う。この地に住んで二十年目、年々その気持ちが強くなってきた。

 特に今暮らしている東北の山奥の田舎(地元の人に見られたら怒られるかな)では十一月末から三月末までの四ヶ月間は、家の周りから田畑一面、時には道路も雪に覆われてしまう。覆われるだけではない、毎日のように降り積もった雪をブル(この地域の人たちは除雪のための重機のことをこう呼ぶ)が道路脇に山積みにするから、我が家の窓からは外の道路を走る車が見えなくなる。二メートルは積まれている。

雪2
 (クリックすると大きくなります)

この大量の雪が、春になれば本当になくなるのだろうかと、心配になる。それぐらいに多くの雪が積もる。ほとんど雪の中に家が埋もれていると言ったほうが、表現としては正しいのではないか。
 毎日のように降り積もる雪は、毎朝のように三時頃からブルが押し寄せていく。十一月ごろの初雪の時に来るブルは、
「ゴーー!ーー!ーー!!!」
と、けたたましく、大きな轟音にさすがに飛び起きてしまう。しかし、三回目ぐらいからは慣れてしまって、朝になってはじめて気が付く。

「あぁ、ブル来たんや。また、寄せなあかんなあ」

 家の前に押し寄せられた雪は、機械が力任せに押し固めたような雪の塊となり、時には一メートルにもなる。

 つづく





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2008.05.31 / Top↑

 我が家の道路に面している部分は車庫も含めて、約十メートル少々。ぎゅっと押し固められた雪の塊を

『ママさんダンプ』(この辺りでは手押しの雪寄せ道具を『ママさんダンプ』と言う名前で売っている。昨年、新しいのを買いにホームセンターに行ったら、『パパさんダンプを発見。『ママさんダンプ』より少し大きいものになっていた)
                              ダンプ


で邪魔にならないところへ寄せていく。軽く、二,三十分はかかる。ぎゅっと押し固められた雪の塊はとても重いから、大変な重労働である。朝だけではない、日中も雪は降る。仕事から帰ってくれば、朝と同じように玄関前と車庫前には、ぎゅっと押し固められた雪の塊が積まれている。このままでは車も、人も入れないから、車を道路脇に一旦止めて、朝と同様に

『ママさんダンプ』

の登場となる。その時にも雪が降っている。降っているだけならまだなんとか大丈夫、吹雪いている時もしばしばである。
 こんな日が少なくとも一月、二月のほとんど、毎日のように繰り返される。今年は自治体の予算もあってか、夜はブルが来ない日が増えたので、一日一回朝だけでの日が多かったが、その分、翌朝がドット増えることになる。

 一月も中旬を過ぎれば、今までに寄せた雪と、新たに降った雪で家の周りも雪でいっぱいになる。小さな雪の滑り台となった上を、ママさんダンプを押して登り、家の裏の方へ運ばなければならない。他に寄せるところがなくなってしまったからだ。
 しっかり固まってない上を歩くと、片足だけが『ズボツ』と大きな穴を開けて雪の中へ入ってしまう。
                                雪


 ひと冬終われば、ひじが腱鞘炎になったこともある。

 この雪寄せ作業はオヤジ(私のこと)の仕事。冬はこの仕事があるから、少々家の中でゴロゴロしていても、奥方には文句を言われないですむ。

 ところで、雪国のサラリーマンの出で立ちをご存知か。公務員を含め、いわゆる会社員は、都会と同様にスーツにネクタイ姿で出勤する。しかし、上記のごとく、家を一歩出れば一面の雪景色、スーツといえども足元は長靴を履くのである。スーツに長靴という姿が、創造できますか。都会の人たちから見れば、かなりダサイのではないだろうか。
「えっ、なに?長靴?」
と思ったが、雪が積もった道を革靴では歩けない。歩くどころか、一歩踏み出せば『すってんころリン』と転んでしまう。たとえ転ばずに歩けたとしても、降り続く雪道を歩けば、道路に積もった雪を踏みしめるたびに、靴の中に雪が入ってきて、五分も歩けば靴下はビショビショにぬれて、足は冷たくなる。

 カッコなんて関係ない、冬の必需品は長靴である。

つづく




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2008.06.02 / Top↑


 雪との戦いはこれで半分。まだまだこれからが本当の戦いの始まりとなる。
 一月の下旬ともなると、家の屋根の上には一メートル以上の積雪がある。古い家はこのまま放置しておくと、つぶれてしまう。つぶれないまでも、家の中のドアや扉の開け閉めがスムーズに行かなくなる。全国ニュースでもどこかの体育館が、積雪によって屋根が崩壊したことを伝えていた。毎年、古くなった空き家や、小屋などが押しつぶされた話は良く聞く。
 どうすればつぶれないか。下ろすしかない。雪ようのスコップを片手に屋根の上に上がり、自分の胸ほどもある雪をかき分けて、軒の方から順に

『ザッ、ザッ、ホイ。ザッ、ザッ、ホイ。ザッ、ザッ、ホイ。』

縦と横に切れ目を入れる。これが『ザッ、ザッ、』スコップ一つ分の四角い型にして『ホイ!』と投げて下ろす。豆腐を賽の目に一つずつ切るように、ただ黙々と

『ザッ、ザッ、ホイ。ザッ、ザッ、ホイ。ザッ、ザッ、ホイ。』

 あまり大きく四角にすると、『ホイ。』がたいへんに重く、すぐに腰に違和感が走る。そうかと言って小さすぎると、はかどらない。適当な大きさにするには長年の経験のみぞ知る。(二十年にしてようやく、雪下ろしのやり方が分かってきたように思う)四十センチメートル四方ぐらいが適当なところだろか。
 軒に近いところをやる時は、『ホイ。』はまだ楽だが、軒から遠くなると、『ホイ。』も遠くへ投げてやらないと下へは落ちてゆかず、軒の辺りに残ってしまい、二度手間になってしまう。
 三十分も続ければ、まず腰に違和感が走る。続いて背中や、腕にもそれが伝わってくる。二、三人で話しをしながらやれば、まだ気がまぎれるのだが、一人での作業の時は飽きてくる。
 家の前の雪寄せ同様に雪が降っているときに、やらざるを得ない時もある。

 一つの雪の塊が四十センチメートル四方ぐらいということは、お気付きの方もいらっしゃるだろうか、雪の高さは私の胸の辺りまである。一メートルは有にあるから、二段、時には三段に分けて投げ捨てることとなる。
 今冬は私ひとりで、まる二日を掛けて下ろし終えた。
 土、日の休みは雪下ろしだけで終わってしまった。

 下ろす雪は我が家だけではない。奥方の実家へ手伝い、会社の倉庫の雪下ろしもある。この倉庫が三、四箇所もあるし、ひと通り終わったころには、我が家の二回目が回ってきたりすることもある。とにかく一月、二月は朝から夜まで雪と戦っているようなものだ。

つづく


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2008.06.04 / Top↑
 年末のドラマを見ていると、
「あっ、雪が降ってきたわ」
「ほんとだぁ」
「きれいだねぇ」
などと言いながら女優さんがくるくると回りながら喜び、はしゃいでいる。その時のBGMは山下達郎の年末定番ソング

『クリスマスイヴ』

 年末恒例の大イベントの二大アイテムである。

 僕も十年前まではそう思っていた。雪国の人たちも絶賛するほど美しい。その風景だけはとても綺麗だ。
            雪景
 
                                    雪景2
  (クリックすると大きくなります)

 今の地に住むようになった頃は、雪が降ってくるのが楽しみで、待ち遠しくて、首を長くしていた。一寸先が見えなくなるくらいに激しく降って来たりすると、ワクワク、ドキドキしながら、
「どれくらい積もったら、屋根の雪下ろしができるのかな」
と屋根に上がる日を楽しみにしていた。
                        ゆき屋根
(すこし分かりにくいですが、屋根の上です)

 今から思えば、不謹慎なことを心の中でニヤニヤとしながら考えていた。仕事中に降り出せば、
「わっ、雪が降ってきた。わあ」
一人大きな声で喜んでいた、他の人たちの白くにらみつけるような視線などまったく気にせずに、
「綺麗だ、美しい、素晴らしい・・・」
おおいにはしゃいでいた。
 音もなくシンシンと降り積もる雪。あっという間に一面が銀世界となり、全てのものを真っ白にしてしまう。翌朝に晴れると、山や、木々に着雪した姿は誠に美しく、なにもかもが朝日に照らされてキラキラと輝き、花も葉もない木々がまるで満開の輝く白い花をつけたように美しい。いつまで見ていてもあきない。
 気温と、風速、風力という自然の画家が山や、木々のキャンパスに雪の白だけで造りだした芸術である。風の無いシンシンと降り続く雪のときと、吹雪いた時の姿とは違う別のものを造りだしてくれる。時には川の流れに純粋に逆らわずに、水のない所にだけ雪の白を置き、現代彫刻のような美を完成させ、常に目を奪われる。

 十年ほど前までは本当に不謹慎なやつだった。雪が降ってくるのを見て大喜びしていたのだから。しかし、今では
「もう雪なんか降らなくてもいいよ、雪の馬鹿やろう」
と怒鳴りたくなってくるほど、降る、降る、降る。どこの空の倉庫に、こんなに多くの雪が溜まっているのか、どんどん降ってくる。見る見る積もっていくのである。もう、こりごりである。降るだけなら良いのだが、雪というやつは降った後は積もるので、厄介なのだ。
 国道に降り積もり道路脇に寄せられて山となった塊は、重機によってダンプに積まれ、雪捨て場へと運ばれる。それを見るたびに
「あれって、融ければ、ダンプには積めない、ただの水になるんだよなあ」
と思う。

つづく




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2008.06.06 / Top↑





 昔、都のあったところに住んでいたころには、桜というものにそんなに感動を憶えなかった。なんとなく、入学式のシーズンに咲く花、ぐらいにしか思っていなかった。
 でも、こんな雪との戦いがつづく、北国に住むようになってからは、特別な花として、一年の区切りの花なんだと言う意識が出てきた。

 三月も下旬になると、雪の降る日はほとんどなく、少しずつ雪が融けて、窓から外を歩く人が見えるようになる。雪の塊が小さく低くなって、汚れた白になってくる。中国大陸から飛んでくる黄砂によって、黄色くなることもある。少しずつだけれども、春が近づいてきている。ようやく、戦いが終わろうとしている。

 四月になっても雪が降る日はあるが、ママさんダンプの出動はほとんどなくなり、田畑のあちらこちらに土が見えてくる。そんな雪がなくなった土のところに、バッケ(ふきのとう)が顔を出すようになってくる。
 家の周りの雪も少しずつ融けて少なくなってくると、雪が降る前に飛んできたゴミが、出てくる。意外にこれが多いのだ。(余談であるが、スキー場のリフトの下の雪が融けると、いろんなものが落ちているらしい。一番多いのは、たばこの吸殻だそうだ)

 そして、完全に田畑の雪がなくなり(山にはまだ雪が残っている)陽も明るく春めいて来るころ、四月の二十日ごろになってようやく桜の便りが聞こえてくる。例年だと二十九日が満開の予定日なのだ。

「春だ。ようやく春が来た」

その満開の桜の下で、冬の戦いを終えて、ようやく来た春を喜び、これからの農作業の前に酒宴を盛大に行うのだ。
 都市の、雪があまり降らない土地の桜の花見とは、すこし感じ方が違うと思う。最近、この地の人たちが桜の花が咲くことを、心待ちにしている意味が、ようやくわかってきたような気がする。今よりも雪が多かった昔に、今よりも除雪内容もよくなかった時代を、活きてこられた先輩諸氏は、特にそう言う気持ちが大きいようだ。
 
「春(とても待ち遠しいもの)」


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2008.06.09 / Top↑


 「東名高速○○IC付近で40km、東北新幹線下りは200%の乗車率」
 夏のお盆が近づくとこんなニュースが毎日、毎回流れてくる。毎年恒例、夏の民族大移動である。
 夏が近づくとこんなことが思いださせる。

 40kmも渋滞していると一番先頭の人はなにをしているのだろう、さっさと行けばよいのになどと、状況も知らずに先頭にいる人を悪者にしてしまう。前も後ろも横も車に囲まれてイライラして、隣の車線の車が少し進みだすと損をしたような気になり、またイライラする。逆に自分の車線が進み出すと得をしたような気分になり、少し気がまぎれる。

 親父の故郷に家族で帰省することが、子供の頃の夏休み一大イベントであった。帰省する3週間前に準備が始まる。時刻表と睨めっこをしてどの特急列車(その当時は非電化路線でした)に乗って行くか、第一希望の指定席切符が取れない時は第二希望をどれにするか、第三希望は、帰りの第一希望はどうする。座席に座って行くためには、指定席切符を前もって手に入れておかないと、3時間の旅は通勤電車並の混雑の中を、重い荷物と共に立ち続けることになる。

 往きの第三希望までを決めて、2週間前の午前4時半、むかし都のあった市の中心駅行きの列車でいざ出陣。この列車で行くのが一番早くその駅につける。駅のホームに入ると完全に止まる前に、手動のドアを開き飛び降りて「みどりの窓口」目指してまっしぐらに走る。朝の5時である。

 すでに多くの人達が列をつくり思い思いに時間をつぶしている。新幹線の上りの列、下りの列。在来線の上り、下りの列。在来線の下りの最後尾はどこなのか、先頭付近の看板を確認して最後尾へと進み並ぶ。いまから4時間ただひたすらこの場所で待つ。僕一人で。4時間の時を、本を読んだり、人間ウオッチングしたり、ボーッとしながら時計と睨めっこする。

 発売開始30分前になると、番号をマジックで手書きされた申し込み用紙が渡される。前もって希望の列車と枚数を書いておく。
「58番、これなら第一希望も大丈夫かな」
 9時になると十数台の券売コンピューターを弾く音が、けたたましく窓口から聞こえてくる。少しずつ列が前に動き出し、いよいよ僕の番が来る。申し込み用紙を係りに見せると同時に、
「これはもう満席ですね」
 発売開始から40分ほどしか時間が過ぎていないのに、もう満席なのかよ。
「全国のコンピューターが一斉に検索しますから、人気の列車はすぐに満席になります、第二希望から検索しますね」
ガックリ。

 かろうじて第二希望は確保した。しかし、戦いはまだ終わっていない。4日後に帰りの切符を買いに、再びその駅に出陣するのである。帰りも第二希望しか取れなかった。

「お盆は実家に帰るの」とよく聞かれる。
「いまの季節は毎日35℃もあるので、帰りません。交通費も高いしね」
 いかにも日本的なお盆の帰省民族大移動は、とても大変な夏休み大イベントなのである。


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2008.06.13 / Top↑
チャレンジ「小説のような・・・」

 『旅のはじまり 草創期』は①~⑤のような話です。今回からは、『思春期』 (ブログを始めて、1ヶ月少々。今後の話の展開に行き詰っていましたが、今日、思いつきました)に入ろうと思います。
 実は、「国内一人旅」のランキングに参加していますが。中学、高校時代はほとんど一人では旅をしていないのですが、いずれ『青春期(高校卒業後)』(これも、今日思いつきました)にはずっと一人旅です。このまま参加させていただきたいと思います。




 昔、都のあったところには、人口は百五十万人を超え、政令指定都市としていわゆる都会といわれているところだ。でもその多くは、中心部より離れたところに集まり、ドーナツ化現象といわれる、都会特有の人口分布で、昔からの都といわれていた地域には昼間の人口だけ多く、そこに暮らす人は少なかった。一部には統廃合が行われ、一学年に一クラスなどという、田舎の学校のようなところもあったようだ。

「おれ、飛沢て言うねん。よろしく」
窓側の席の前から二番目に座って、上半身だけを後ろ向きにして、いきなり話かけてきた。
「あっ、そうかあ」
[U小学校なんやけど、あんたはどこや]
「えっ、おれもやけど、六組やけど、お前みたいなんしらんなあ」
「そうかあ、名前はなんて言うの」
「夏樹」
「おれは、五年の時に転校してきて、二組やったから、わからへんかもなあ」
 三つの小学校が集まり、一つの中学校になった。U小学校だけでも六クラスもあった。H中学校の一年生は十一組まである、市内でも有数のマンモス校だ。
 新一年生だから席順は五十音順。だから、飛沢の後ろは夏樹だった。
 突然、うしろの席から、
「おれ、野々口、T小学校やねん。夏樹って一、二年のときから六組とちゃうか」
「あっ野々口て、あの野々口かぁ、どっかで見たことある思たんや」

 U小学校では夏樹たちが三年生までは九組まであった。学校の周りの田畑が次々に宅地化されて、人口が増えてきた。もちろん子供の数も増え続けていたので、教室が足りなくなってきていた。そこで、一部の地域を分割して、新しい学校を造り、U小学校の人数を減らしたのだ。そのために野々口は四年生からはT小学校に移った。
 それでも夏樹が六年生の時の一年生は、十四組までふくれあがり、校庭にはその場しのぎのプレハブの教室が立ち並び、運動場はかなり狭くなったのを覚えている。そのため運動会は各学年をクラス別に二つに分け、さらに赤、白、青の三組に分けて、二日間にわたり行われていた。
 生徒の半分は運動会、残り半分はいつも通りの授業をしていた、学校中に運動会の定番音楽が響き渡る中で、半分の生徒は普通に授業をしていた。
 ちなみに中学校も夏樹たちが卒業後に、分割された。いやその前にU小学校がもう一回分割された。




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2008.06.16 / Top↑
「野々口って三年の時は四組やったなあ。おれは六年間ずっと六組やった」
「ほんで、四年からはT小や、家から近こうなったけど、友達が減ったさかいなあ」
「そしたら、おれが転校してくる前は、もっと人が多かったんや」
飛沢が話しかけてきた。

飛沢の前の学校は市内の中心部で、オフィスビルに囲まれ,明治のころに開校した古い学校で、卒業生には有名人も数人いるようだ。
「六組でも多いと思ったのに、九組もあったやなんて、すごいなあ」
飛沢は興味津々に二人から話を聞きだそうとしていた。
「そやなあ、同じ学年でも、おんなじクラスになったことのないやつも、いっぱいいるしなあ。名前が分からんのもいっぱいいるなあ」

 夏樹だけが六年間六組だったことに、少しだけコンプレックスを感じていた。
「なんかおれだけがずっと六組やったから、クラス替えのたんびにみんながどっかへ行ってしまうような思いになって、ちょっと寂しかった」
「おれらかて、四年からは三クラスになったから、すごく寂しい気持ちになったんや。早よう、中学校になったら、また、みんなに会えると思うて楽しみにしてた」
野々口が割って入った。
「おれが、転校してきたころは、ものすごく面白かった。今までは一クラスしかなかったし、急に人が増えて楽しかった」

 隣の町から、小学校入学の時に市内の学校に転校してきた飛沢には、本当に親しい友人はなく、U小学校に来た時は人がすごく多かったから、ここなら多くの友達ができると信じ、隣のクラス、その隣のクラスまで出かけては、声をかけて友達つくりに飛回っていた。おかけでかなりの人数の親しい友人ができた。二組だった飛沢は、二組はもちろん、三組、四組と順に活動範囲を広げていった。夏樹がいる六組までは足を運ぶ前に、多くの友人ができた。

「ほとんど初対面同士がこうやって親しくなったんやから、さっそく、今日の放課後に集まって遊ぼうよ」
飛沢が切り出した。



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2008.06.18 / Top↑

 飛沢、夏樹、野々口は、たまたま席が近かっただけだけれど、入学式の次の日からは旧知の友のように、テレビの番組のこと、アイドルのこと、部活のこと、授業のこと、そして女の子のことなどなど、他愛無い話に夢中になっていた。
 四月の末ごろには部活動に入るものは、みな入部届けを出した。野々口はサッカー部に入った。
 飛沢、夏樹、二人の部活動は帰宅部、もしくは遊部だった。ほとんど毎日のように二人で帰宅部活動をしていた。
 こうして夏樹と飛沢は運命的な出会いをして、ここから深み(?)にはまっていくこととなる。

 その当時の中学生にとって憧れのアイテムと言えば「ラジカセ」である。今では数千円でステレオのCDラジカセが売られているが、数十年前の中学生にとってのラジカセは、なかなか手には入りにくい高級品として、みなが憧れていた。それもステレオではなかった。

 その憧れの一品を飛沢が持っていた。それを聞きに行くのが目あてで、夏樹は彼の家に足しげく通った。
 そして、ビートルズを筆頭に洋楽にはまり、さまざまな音楽を聴くようになり、その延長として、ステレオ機材にもはまっていった。
 今は、ミニコンポが主流のようだが、その当時はアンプ、レコードプレイヤー、スピーカーなどを全て単品で購入して、アンプを中心に組み合わせて、音楽を聴く。ステレオといえばこのシステムコンポのことを言った。
 買うことなど夢のまた夢。電気店に行ってカタログを集めて、将来のシステムコンポ生活を構築していた。

 のちにレコードプレイヤーを買ったときに
「なんで音も出えへんプレイヤーなんか買うてんねん」
と、夏樹のオヤジはぼやいていた。これ一台で今のミニコンポを二台買っても、お釣りがくるほどの高価な品物だった。

 レンタルレコード店が巷に出始める十数年前の時代、レコードもそんなに多くは持っていなっかた。クラスの誰かがレコードを買えば、又貸しの連鎖が始まり、持ち主に帰ってくるころには、傷だらけとなった。数箇所の針飛びは当たり前となり、時には中に入っているライターと呼ばれる、アーティストの説明書のようなものが紛失していることもしばしばだった。(そういえば、CDにはそんなものはすくないなあ)

 飛沢の親父さんがステレオでテープに録音をした「ザ・ビートルズ 1926~1966」前期ヒット曲集、いわゆる『アカ版』の、一曲目、「ラブ・ミー・ドゥ」が初めて聴いたの「ビートルズ」の曲だった。
 「ビートルズ」の曲はとても新鮮で、英語の歌詞の意味などわかるはずは無いけれど、なんとなくいいなあ、心地よいなあと感じて、はまっていった。
 中学生になって初めて英語を習い、その一学期に聞いた「ビートルズ」の、聞こえてきた言葉を聞こえてきたとおりに、少し習った英語の知識を最大限に活用して、英語のように無茶苦茶に怒鳴り、わめくように、二人で歌っていた。(そう歌っているようにしか聞こえなかった)


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2008.06.21 / Top↑


 夏樹にとって飛沢が持っているものの中でもう一つ、憧れのアイテムがあった。自転車である。十段変則、ドロップハンドル、車体は軽合金製。小学校のころはウインカー付のセミドロップハンドルの自転車が憧れの一品だったが、中学生になり、少しだけ大人に近づいたのだろう、飾りはなどいっさいついていない、本格的な自転車に目が向くようになった。
 夏樹も飾りはないが、五段変則のセミドロップハンドルの自転車を買ってもらい、どこへ行くのもこの自転車で出かけていった。半年後には近くの自転車店で見つけた、中古のドロップハンドルに小遣いを貯めて付け替えた。

 夏樹と飛沢の二人は、休みになると地図と,にぎりめしを持って遠方へと出かけていった。
「明日の日曜日はどこへ行こうか」
「そやなあ、この道をずっと北へ、行けるところまで行ってみようか」
「峠を越えて、となりの町まで行けたら、面白いなあ」
「昼までにこの分岐のところまで行けたら、このままぐるっと回って、こっちの国道まで来て帰ってこようか」
「ここまでが四十キロかあ、いつもより早い時間に出かけんと、昼までには着かれへんのとちゃうか」
「よし、明日は六時に出発しょうかあ」
「オッケー」

 市内はもとより、近隣町村まで足を伸ばし、できるだけ往きの道とは別の道で帰ってくるように地図とにらめっこしていた。

 飛沢の自転車と夏樹の自転車の明らかな格差があらわれるのは、登り坂の時だ。夏樹が自転車に乗るのをあきらめて押していく登り坂でも、飛沢はゆっくりだけれども、自転車に乗って登っていく。恐るべし十段変則の威力。

 飛沢は相変わらず、新しい友達を作りに走り回っていた。小学校のころからの友達や、多くの新しい同級生たちから慕われていた。それなのに、やすみの度に二人で遠方へ出かけ、毎日のように二人で帰宅部活動をしてくれた。
 サイクリング部があったら二人とも入部したんだけれど。



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2008.06.24 / Top↑
 二年生になるとクラス替えがあり、飛沢と夏樹は別のクラスになった、校舎の棟も違い、帰宅部活動は少しおろそかになってしまった。回数は減ってしまったが、サイクリング同好会は健在である。
 
[ちはぁーす」(こんにちはーすの短縮形)
「一年坊、声が小さいなあ」
「ちはぁーーす」
「よおーし」
 サッカー部へ入った野々口が一年生の後輩に、挨拶の仕方が悪いことを、少し大きな声で叫んでいた。
「お前も偉くなったなあ」
「一年と二年では、天と地ぐらい違うさかいなあ。一年間、先輩になにを言われても我慢して、頑張ってきたんやから」
 とにかく上下関係が厳しい中学校で、野球部とサッカー部は特に先輩たちが威張っていた。素行もあまりよろしくはなかった。態度は他の部より、かなり大きかったが、部としての成績はあまりかんばしくなかったようだ。
「あんまり、下級生をいじめるなよ」
「いじめてんのと、ちゃうでぇ。礼儀を教えてんのやぁ」
「ほぉー。もうすぐ、大会やろ、がんばれよ」
「おぉ」
 野々口と夏樹も別のクラスになって、話すことが少なくなっていた。

「おう、おはよう」
「おう」
 二年生になって同じクラスになった赤川だ。かなりの鉄道マニアで、鉄道のことはとにかく詳しいのである。
 夏樹も蒸気機関車のことが好きで、少しは雑誌なども持っていたが、赤川とは比べものにならない知識の乏しさに恥ずかしくなり、赤川に感服してしまった。
 飛沢とはまた、違った形で興味を持った友となった。




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2008.06.27 / Top↑





「蒸気を見に、梅小路にいかへんか」
「行こかあ」
 梅小路とは京都にある、『梅小路蒸気機関車館』のことである。京都駅の西方にある機関区(蒸気機関車などを駐機させるところ)に動態保存(実際に動かせる状態で保存)静態保存(動かすことはできない)の蒸気機関車十数台を展示しているSLのテーマパークである。
 今で言うところの鉄道オタク「鉄チャン」の聖地のようなところだ。

 関西周辺では山陰本線が最後のSL走行区間であったと思う。(たぶん)それも夏樹たちが小学校六年生の時に廃止されてしまった。梅小路に行かないとSLを見ることはできなくなってしまった。(北海道など、一部にはまだ走っていた)

 赤川と夏樹はオヤジのカメラを持ち出し、近隣の国鉄に乗り、日帰り圏へミニ旅行をたびたび行っていた。どちらかというと、電車などの新しいものにはあまり興味がなく、SLを筆頭に古いものを追いかけていた。『ローカル線日帰り旅』といったところだろうか。

 小さな駅に降り立ち、駅周辺で思い思いの撮影ポイントを探し、一時間に数本しか来ない列車を待ち続け、鉄道雑誌に載っているようなショットを狙って、カメラを構える。相手は動くものだから、一回に切れるシャッターはせいぜい三度ぐらい。
 一本の列車が行ってしまえば、静寂の時がくるのだが、突然、けたたましい音とともに貨物列車が通り過ぎて行く。貨物列車は時刻表に載っていないので、不意をつかれてしまい、シャッターチャンスを逃してしまう。

「くっそう、貨物まで載ってる時刻表って売ってへんかなあ」

 『ローカル線日帰り旅』と平行してカメラを持ち出しよく行ったのが、廃止される市電の撮影だった。当時、市内を市電があちらこちらに走っていたが、モータリーゼイションの波には勝てず、他の都市同様に路面電車は邪魔者扱いされ、廃止への方向が決定付けられていた。
 平成の世の中では、エコ交通として、もてはやされたに違いない。時すでに遅し、残しておけばよかったのに、と思う。
 市内の各地を回り、さまざまな角度から市電をカメラに収めていた。

 さながら『鉄道研究会(鉄研)』の活動である。このときは会員二人だけれど。
 


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2008.06.30 / Top↑


 鉄道研究会の活動は地味なもので、休みの日に自転車を駆って、オヤジのカメラと質屋で買った安い三脚を担ぎ、廃止される市電の路線を、撮影のベストポイント(自分たちはそう思っている)を求めて西へ東へ、北へ南へと走り回る。
 ここぞと思った場所に自転車を止め、おもむろに三脚を立てて、カメラをセットする。カメラと言っても一眼レフなどではない、いわゆる『バカチョンカメラ』より少し良いものである。一応、ピンとはあわせる、露出は自動かな?
 フィルムを巻き上げ、市電が来るのをひたすら待つ。時刻表などはないから、ただ待つ。その当時のカラーフィルムは高価で、現像、焼付けも高かった。カメラに入っているのはもっぱら白黒フィルムだった。

「おっ、来た来た」
「反対側からも来たで、ちょうどすれ違いが撮れそうやなあ」
「あっ、いま目の前を自転車のオッサンが通りよった」
「おれもや、せっかくのシャッターチャンスやったのに」
ガードレールに腰をおろし、次がくるのをまた待つ。
      市電①

                              市電②


 市電は比較的、次々と走ってくるから、待ち時間はあまり苦にはならなかったが、『日帰りローカル線の旅』の時は列車が来る時間は分かっていても、本数が少なく、待ち時間が長いのである。

 山陰本線、京都、二条駅間の高架化記念に四年(?)振りに蒸気機関車が走った。その時などは見物人があまりにも多く押し寄せたために、京都駅の出発が大幅に遅れ、やきもきしたものだった。
                     丹波口


 もっとひどかったのは、東海道線京阪百年記念事業で京都、大阪間を蒸気機関車が走った時だった。淀川の鉄橋を通過するSLをねらって、二時間も前から場所を取り、三脚を立てて待っていた。通過する時間が近づくにつれて、見物人がどんどんと増え、膝上まであった雑草は全て踏み固められて、二時間前とはまるで違う景色になるほどに人でいっぱいになった。
 ベストポジションと思っていたのに、いつの間にか夏樹の前には多くの見物人が、見るからに立派で高そうなカメラに大きな望遠レンズを付けて三脚に立てた人だかりができていた。

 そして予定の通過時間が来た。十分、二十分、いっこうに黒い煙は見えてこない。結局一時間後に、吹田駅付近でカメラを構えた少年が、SLと接触して怪我(スクラップブックを検証したら、亡くなったとある)をしたためにその場所で停車し、中止になった。巡回中のパトカーのスピーカーから聞こえてきたのだ。
 三時間も何を待っていたのだろうか。

 後になって分かったことだが、事故検分が終わった後に、電気機関車に引かれて、京都駅まで走ってきたそうだ。煙も出さずに、陽も落ちてあたりが暗くなってからだったそうだ。



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2008.07.03 / Top↑




 夏樹と飛沢は回数こそ減ったが相変わらずサイクリング部と、帰宅部後に音楽鑑賞クラブも盛んに活動をしていた。ビートルズの『赤版、青版』の四枚のレコードに関しては、いま聴いている曲の次は何か、すぐに分かるようになっていた。要するに、こればかり聞いていたのだ。

                       ビートルズ

 夏休みが近づいたころ、飛沢と赤川が小学校の時に同じクラスだったことが分かり、飛沢を鉄道研究会に誘い込んだ。

「夏休みに日帰りではなく、泊りがけで少し遠いところへ活動範囲を広げへんか」
赤川が切り出した。
「ええなあ。どこへ行こうか」
「餘部鉄橋を見に行かへんか」
「東洋一の大きさを誇る餘部か」
「面白そうやなあ。行こ行こ」
新加入の飛沢も乗り気である。
さっそく、地図を広げて場所の確認。兵庫県の北部、日本海に面したところにある。
「そしたら、京都駅を始発の鈍行に乗って行こう」
「午前中には餘部に着く。鉄橋のすぐ横が駅になってるから、駅に野宿しょうか」
「それがええなあ。寝台特急の『出雲』も見られるなあ」

          餘部3

                          餘部2


夏樹の親父はこの辺りの出身である。餘部のことも知っている。
「あほか、おまえは。餘部には駅はあるけど、駅舎はない」
「駅舎のない駅なんかあるかあ」
「考えが甘いなあ。おばあちゃんのところよりも田舎や、単線の線路の横に、ホームだけがある。ベンチぐらいはあったかも知れへんなあ」
「ほんまかいなあ」
「夜になったら、でっかい蚊が出てきて、さされたら大変や」

 脅しに屈したわけではないが、親戚の知り合いの民宿に泊まることにした。駅からすぐのところにある民宿なのだが、鉄橋の高さが四十一メートル、そのすぐ横にホームはある。くねくねと山道を降りてくるのは、少々大変だった。

 京都駅五時三十二分発の浜田行きの鈍行に乗り、およそ六時間の旅に出かけた。目的地は兵庫県香住町(現香美町)餘部駅。乗車車両はもちろん最後尾の最後列に席を陣取り、時々、最後尾の乗降デッキに向かい、風を感じるのである。少々危険が伴うが。



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2008.07.05 / Top↑



 餘部の一つ手前の鎧駅はトンネルとトンネルの間にある、小さな漁村の駅で、目の前に漁港が広がる。この駅を出てからはのぼりが続き、列車の速度はあまりあがらない。四つ目のトンネルを抜けると、いきなり視界が開けて右手の眼下に日本海が広がり、鉄橋上を走行している。
 鉄橋が終わるとすぐにホームが始まる、夏樹の親父が言っていたとおりに単線の線路の横にホームだけあり、五人も座ればいっぱいになるベンチに、屋根だけはついていた。

「これじゃあテントでもなかったら野宿はむりやなあ」
「山と、海、他にはほんまに何にもないなあ」
「まずは時刻表を見て、何時に何が来るか調べよか」
真夏の抜けるような空と、海の青が目に眩しい。
「なんか音せえへんか」
「上りの特急が来たで」
「カメラ、カメラ」
カメラを出す前に、この駅に止まらない特急『あさしお』がけたたましい音とともに風神のように通り過ぎていった。鉄橋にさしかかると、レールと車輪とのぶつかり合う金属音に鉄橋本体へ伝わった金属音も加わり、ますますけたたましく轟音となって村中に響き渡り、駅とは反対のトンネル側の山にこだました音までも響き渡った。

「残念、間に合わんかった」
「また、すぐに来る」
飛沢がにこっと笑顔で言った。
「あまいなあ」
夏樹と赤川が同時に口を開いた
「特急は一日に五往復ぐらい、鈍行は一時間に二往復かな」
「ここは京都みたいに、いっつも電車や列車が走るところとは違うのや」
本線とは言っても、単線の非電化路線。典型的なローカル線である。

「そろそろ上りの鈍行が来るで」
「三脚にカメラをセットして、どこから撮ろかな」
上り列車はまず、この駅に止まり、乗降を終えると鉄橋へと入っていく。三人の人が降りたが、乗る人はいなかった。



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2008.07.07 / Top↑


 列車が行ってしまうと、次の列車がくるまでに三十分から一時間の時間待ちとなる。真夏の炎天下での時間待ちは、ただただ暑いだけだ。目の前に海が広がっていても、泳ぎに行く時間はない。高さが四十一メートルの鉄橋のすぐ横にある駅から民家のあるところまでは、くねくねの山道を降りるのに十分近くかかり、登るのにはそれ以上かかる。海に行っている間に次の列車が来てしまう。海水浴が目的でここへ来たのではない、鉄橋を走る列車を見て、写真に撮って、鉄道研究会の活動としてきているのだ。

 時間待ちをしている間に、列車の最後尾のデッキにいる時よりも危険な体験をすることができた?してしまった?

「あと一時間はなんの列車も来いひんから、鉄橋を渡ってみいひんか」
「よし、行ってみよ」
 線路の枕木部分より五十センチほど下がったところに、金網の通路がある。横は夏樹たちの背丈よりも高い位置まで金網の壁が立っている。もちろん、保線用である。足元は四十一メートル下の、家や道路、田んぼが見える。
 あとで聞いた話では、餘部の人たちが隣の鎧へ行くのに、本数の少ない列車を待つより線路を歩いていったほうが、国道を通るより近道なのだそうだ。トンネルの中も通路があり、列車が着た時のための退避用の横穴も、数十メートルおきにあるようだ。

 足元から下が丸見え状態での歩行は、少々ビビリながらではあるが、海からの爽やかな風を受けて、三人はようやく鎧駅側のトンネルに着いた。こちら側から山を降りる道はないから、来た金網の通路をまた戻るしかない。
 ちょうど鉄橋の中間地点あたりだろうか『ピィーー』と警笛が聞こえてきた。鎧駅側のトンネルを入る合図の警笛だ。
「おいおい、あと三十分は来ないはずやなかったんか」
「あっ、貨物やで、きっと」
「また、貨物か。走ったって駅までは辿り着けへんで」
「しゃあない、この壁にへばりついて、通り過ぎるのを待つしかないなあ」
 やがて貨物列車はトンネルを出る合図の警笛を鳴らし鉄橋に入ってきた。駅には止まらないが、鉄橋上は徐行して走る。とはいえ地上四十一メートルの金網の通路の上、巾は一メートル少々、壁にへばりついても目の前に車輪が通過していく。




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2008.07.09 / Top↑

『ガタンガタン!ガタンガタン!』


 目の前に貨車の車輪が轟音を響き渡らせ通り過ぎて行く。
 耳に入ってくるのは車輪の轟音と、その振動が鉄橋に伝わった金属音しか聞こえない。自分の声さえも遮断されてしまい、貨物列車が通り過ぎる数十秒間は、実際の経過時間よりかなり長く感じた。生きた心地がしないとは、このようなことを言うのかと思った。

「ああ、怖かった」
「しばらくは、来いひんと思うてたのに」
「貨車はいつ来るか分からんからな」
「けど、おもろかったなあ」
飛沢は少し感じ方違ったようだ。

 午後三時ごろからは駅から山道を降りて、国道を海とは反対方向へ歩き、鉄橋全体を写真に収めた。そのあとに親戚の知人の民宿に入った。

                             餘部5


 二階の部屋からも鉄橋が遠望でき、真夜中にも鉄橋を通る列車の音が『カタンカタン、カタンカタン』と聞こえてきた。鉄っちゃんにとっては、なんとも心地のよい音だろうか。
 星空のとてもきれいな夜に、かすかに山影がうかがえるが、ほとんど何も見えない暗闇の中を列車の『カタンカタン、カタンカタン』の音とともに室内灯の帯だけが右から左へ、左から右へ流れって行った。

                         餘部4


 中学校時代の泊りがけローカル線鉄道研究会の旅は今回のみだった。いまの中学生は友達同士での泊りがけ旅行などは許可されているのだろうか。
 時刻表と地図を広げて、わいわいと計画を練るところからが旅のはじまり、とても楽しい時間だった。

 この当時の愛視聴テレビは『遠くへ行きたい』だった。毎週、かかさず見ていた。いつかは自分も日本中を旅してみたいと思っていた。
 今でもオープニングの曲を聴くとあの頃のことを思い出し、どこにも行かなくなった、行けなくなったいまを憂いている。
 旅はまだまだ始まったばかり、これからどんどんとエスカレート(?)していく。


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2008.07.14 / Top↑

 NHKの朝の連続テレビ小説で「てるてる家族」というドラマを放送していたことが、数年前にあった。大阪の池田市を舞台にパン屋を営み、娘四人の四女を中心に描かれたドラマである。BS放送の土曜日に一週間分を放送しているので、ビデオに録画して休みの日にゆっくりと見ている。

 とにかく、おもしろい。おそらく脇を固める出演者のほとんどが、関西の芸人さんだから、元関西住人が聞いても、ほとんどいやみのない上手な関西弁によるしゃべりがとてもよい。関西出身でない役者さんが役として関西弁を話すと、アクセントを誇張しすぎてしまうことが多い。そうすると、不自然な言葉となり、耳障りになってしまう。東北出身の人が「おしん」を見たときに、不自然な東北弁を感じたり、九州出身の人が西郷隆盛役の俳優のしゃべりを不愉快におもったり、されたこともあるだろう。

 NHKらしくないと言えばあまりに抽象的だが、従来の硬いイメージがなく、その場面にぴったりの照れ隠しのボケに、まったくいやみのない突っ込みが飛んでくる。まるで大阪漫才を見ているような、ボケと突っ込み。その、絶妙な間合い。なぜかボケの台詞も突っ込みの台詞も、役者さんが話す前に見えてくる。それだけ関西人には心地よい軽快なリズムというか、関西人の生活のリズムにちょうどあっているように思う。

 以前、頻繁に旅行をしていたころに、泊るのはユースホステルが多かった。
さまざまな地方の人たちと、初対面なのにいろんな話ができるから楽しい、それが最大の旅の目的かもしれない。最初はさまざまな地方の方言が飛び交い、お国の良いところ、変わった方言などの会話で少しずつ盛り上がってくる。

 僕を含めて関西人は常にボケをかましたり、突っ込みを入れたりと、笑いを取ろうとするのだ。関西人の性なのだろうか、そんな会話でないとなんとなく落ち着かない。関西人が二人いれば完全に漫才会話になってしまう。
 会話が進むと、いつの間にか関西弁を話し出す人が出てくる。関西出身でもないのに言葉尻に関西風のアクセントで話し出す人がいるのだ。無意識に出てくるらしい。するとすかさず突っ込みが入る
「あっ、関西弁がうつったな。おもろいやっちゃなあ」
と、ますます場が和み、笑いがおおいに起きてくる。

 あるCMで「関西弁をしゃべる宇宙人」と言うのがあるが、若者を中心にお笑いブームが再来しているいま、そんな真剣な笑いがこの不景気、荒れた世の中を吹き飛ばしてくれるのとちゃうやろか。



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2008.07.16 / Top↑


 車に乗って信号待ちしていたら、前の乗用車の運転手が左手に携帯電話を耳にあてているのが見えた。よくある光景だ。間もなく青に変わり左折しようとしたが、携帯片手のおねえさんの車は前には進まない。僕の後ろにも車が何台か待っている。クラクションを一回鳴らすと,慌てる様子も無く、ウインカーも出さずにゆっくりと、ふらふらと左折した。止まることも無く、普通に前へ進むことも無くふらふらとしている。対向車が来るから、追い越しも出来ない。かなり頭に血が上り始めているとわかった瞬間、クラクションを少し長く押していた。するとその乗用車はウインカーも点けずにセンターラインよりに止まった。車は動かないが手には携帯を耳にあてている。対向車の切れ間を見てクラクションをかなり長めに押しながら、その車の右側に出て横に並んだ時、おねえさんと目があった。
『バカヤロウ』(不適切な発言、表現がありお詫びします)
と叫んでいた。そのときのおねえさんは『何よう、うるさいなあ』と携帯を耳にあてたままで言ったように聞こえた。「いまどきの茶髪のおねえさんである」皆さんもこの不適切発言したくなるでしょ。

 毎日くるまに乗って走っていると、交通マナーの悪い人を良く見かける。年々増えているような気がする。脇道から確認もそこそこに飛び出したり、曲がる直前でウインカーをつけたり、一日に何回もヒヤッとさせられる。スーパーなどの駐車スペースでも障害者用の場所に堂々と止める人、白線の外に二台もはみ出して止める人、明らかに邪魔になる所での人の乗り降りする人。
「いまどきの若いものは・・・」と僕が若い時から言われて来た。僕らの少し年下の人たちは「新人類」その少し下の人たちは「新、新人類」と呼ばれた。今の若い人たちはなんて呼ばれているのだろうか。

 阪神大震災、日本海で重油の流出事故などのボランティアとして頑張った人は、茶髪の若い人が多かったと聞いている。
 もちろん、若い茶髪の人たちの無謀運転も目に付くこともしばしばある。しかし、この交通マナーの悪い人は若い人より、僕より明らかに年上の人が多いようだ。
おじさん、おばさん(僕より年上の人ならこう呼んでも怒られないかな)が若い人たちの見本としてしっかりしないと、これからの世の中を背負っていく若い人たちが困るのだと思う。自分の子供にも、悪いことは悪いとはっきりと教えなければいけないのだ。自分の子供の機嫌取りする必要はないのだから。

 よその子を叱(しか)る怖いおじさんが近所に居なくなったとよく言われる。自ら嫌われるのはだれだって好まないだろう、せめて良い見本にならないといけないと、自らもそう思うのである。このままでは、
『いまどきのおじさん、おばさんは・・・』となってしまうのだろか。僕も気をつけよう。





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2008.07.18 / Top↑
 長いような、短かった中学校生活の三年間が終わり、たまたま飛沢と赤川は同じ高校へ、夏樹は別の高校へ行くことになった。
 違う高校へ通うようになっても、夏樹と飛沢のサイクリング部、音楽鑑賞クラブは二ヶ月に一回ぐらいの活動は行っていた。もちろん鉄道研究会も活動は続けていた。

 夏樹の通っていた高校には鉄道研究会もあったのだが、籍だけ置いてほとんど行かなかった。週に一度だけ出欠を取ったら、あとは何もなかった。
 文化祭で鉄道模型の簡単なレイアウトを作り運転会をするのが、唯一の活動だった。夏樹はそれも参加しなかった。先輩たちも勝手に楽しんでいたし、今で言うところの『オタク』と言う表現が適切な感じの人たちだった。
(夏樹もほとんど『鉄オタ』であるが)

 文化部は大学並に種類が多く、二十クラブぐらいあっただろうか。鉄道研究会をはじめ、聖書研究、映画研究、生録同好会(まだまだ、ラジカセが高級品だったころに、テレビ局で使うような録音機、マイクなどを持ち出し、祭りや、街の様々な音を集めていた)釣りクラブ(部員はとにかく多かったが、実態は不明)サイクリング部(実際には自転車部のようっだた)軽音楽部(テレビのオーディション番組に出演した奴もいた)ユースホステルクラブ(読んで字の如く、ユースホステルを使って旅行をするクラブ。夏樹の二つ目の在籍クラブ)いまもあるのかな。

 そうだ、落研(落語漫才研究会)もあった。芸能祭ではちゃんと高座を作り、落語をやっていた奴もいた。
 
 体育部にも少々変わったのがあった。大きな川や湖が近くにないのにボート部(市内では強かったようだ。対抗高が少なかったのかな)冬しかスケートができないのにスケート部、山まではかなり遠いけれどスキー部、山岳部。
 山岳部は大会で優秀な成績を上げたように思う。

 夏樹にとっての部活動は、趣味の世界を広げる手段だった。遊び半分のような軽い気持ちで、三つ目の写真部にも在籍していた。けっきょくどれもが中途半端になってしまったが、ユースホステルを使ってクラブ活動としての旅行は二回行った。

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2008.07.20 / Top↑




「夏樹、今度の日曜日に俺んちに、来いひんか」
 飛沢からの電話がかかってきた。
「新しいレコードを買ってきたんや、聞きに来いよ」
「あぁ、ええよ。昼から行くわ」
 飛沢は洋楽を中心にレコードを買ったり、友達から借りたりしては、夏樹に声を掛けて、飛沢の家の親父さんのステレオで鑑賞会を開いた。いつも二人だけだった。夏樹が気に入るとテープに録音してくれた。

 夏樹も近くの電気店で安いラジカセが売りに出ていたのを、妹と折半でようやく手に入れた。買うのに出した金額は折半でも、八割がたは夏樹が使っていた。正直なところ、妹はあまり音楽に興味はなかったようだが、夏樹にはお金がなかったし、父親には買ってもらえるわけも無く、妹を説得して半分の金額を出させたのであった。
 そのラジカセで、毎日、何回もテープを聴いていた。
 
 こうやって音楽鑑賞会を開きながら、サイクリング同好会の打ち合わせも行う。通う高校が違うのに、二人はこうして集まっては親交を深めていった。だからと言ってそれぞれの通う高校には、それなりに友達はいた。特に飛沢はいままで以上に友達作りに精を出していたようだ。いや、自然と飛沢の周りに人が集まり、なんとなく友達が増えていったと言うほうが、正しいのかもしれない。
 飛沢の家に行っての会話の中には、彼が通う高校での友達の話も多く聞かれた。レコードもその友達たちから借りてきていた。

「今日は、オリビア・ニュートン・ジョンや」
高い音の声、なめらかなで心地良いメロディーを聞き、いつものように詩の内容は二の次、耳に入ってくる音を何も考えずに、単純に楽しむ。そして気に入るとテープに録音して、また毎日、何回も聞き返すのである。
「なんや知らんけど、えぇ曲やなあ」
「そやろ、おれも気に入ってる」
「また、テープに録ってもうてもええかあ」
「ええよ」
「そしたら、すぐに持ってくるは、こないだ買うたのがあるや」

 レコードだけでは飽き足らず、FMラジオでエアチェックしたテープも聞きあさっては、見識を広げ、番組表が載っている雑誌を買って、アーティストの特集を録音して、テープのコレクションを増やしていった。全てが飛沢のおかげである。
 アルバイトで稼いだお金でアンプとチューナーを買うまでは(スピーカーは夏樹の六歳年上の従兄弟から貰う約束をしていた)、ずっと飛沢が録音してくれた。
 感謝、感謝である。


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2008.07.22 / Top↑

 高校生活もだいぶなれて、二学期の文化祭が近づいてきたころだった。
 「ユースホステルってなんや」
 夏樹の高校の同級生の本村が退屈そうに言った。ユースホステルの意味すら分からずに、このクラブに入部届けを出した、不届きものである。こんな輩が他に三人いた。夏樹を含めて三人はユースホステルのことを一応は知っていたが、『安くて、若者向けの宿』この程度の知識しかなかった。

 今はとても便利な時代。辞書など引かずともインターネットで検索すれば何でも知ることができる。そこで、あらためて「ユースホステル」について調べてみた。
 「だれでも安全に、安く、楽しく泊まれる宿。部屋は男女別で四人から八人ぐらいの相部屋、二段ベッドか畳の部屋。食事、シーツのセットはセルフサービス。同宿の仲間とすぐに親しくなれるところ」
 だいたいこのようなことが書いてあった。

「たしか、食事のあとにミーティングがあって、泊まった人たちが集まって、話したり、ゲームしたり、歌を歌ったりするみたいやでぇ」
多少は知識のある安達が、部室の外に見えるサッカー部の練習を見ながらしゃべった。
「なにそれぇ、めんどくさいなあ」
 本村と同じく何も知識の無い田端が言った。

 だいたい、なぜユースホステルのことを知らない者どもが、この部に入ったのか。先輩部員がだれもいない休部状態の部であることを、少しだけユースホステルの知識のある逢坂が聞きつけてきた。こんな部でも一応は部室というものがある。教室からは少し離れて、グランドに面したところに部室がある。ようするにその部室に興味があったのだ。クラスの仲間とタムロできる場所をうまく見つけてきたのである。タムロして何をするわけでもない、ただ先生の目の届きににくい場所を見つけたのである。

「三年前から休部やったし、まあ顧問の先生も他の部の顧問もやっていて、あまり多くを望んでないみたいやし」
 ため息混じりにみんなを見渡しながら、夏樹が言った。
「けど、ここで悪いことするのはやめような」
「タバコなんか吸うてるところを見つかったら、すぐに部室を使えんようになるで」
 相変わらずサッカー部の練習を見ている安達が言った。
「そやな、せっかく見つけた隠れ家みたいなもんやさかいなあ、おい本村、ここでは吸うのやめろよ」
「なにい。田端、おまえには言われとうは無いで」
本村が少し声を荒げた。


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2008.07.25 / Top↑


「一応、部長を決めなあかんやろ」
「そりゃそーだ」
「この部屋を見つけてきた逢坂がええのとちゃうか」
「そやなあ」
「ユースホステルのことを一番くわしいし」
「うん、それがええなあ」
さっそく、七人はユースホステル部の部室にタムロして、だれとも無くこんな会話がされて、なんとなく逢坂に部長をやってもらうことになった。なぜか逢坂も嫌がらなかったから、すぐに決まった。

「先生がとりあえず一泊でもええから、どっかへ行こうって、言うてはったで」
職員室へ部長就任の挨拶をすませてきた逢坂が、顧問の先生からの伝言を言った。
「冬休みはバイトで忙しいでえ」
田端が口早に話した。
「おれも」
「おれもやで」
「夏休みで貰ったバイト代で、ギター買うたから、金ないし」
「冬や休みはちょっと無理みたいですって先生に言うとくは」
逢坂が話しもそこそこに部室を出て行った。
「あいつも冬休みにバイトするから、正月の元旦しか遊べへんて言ううてた」
逢坂と同じ中学校の岡村が、小さな声でつぶやいた。

 数分後に逢坂が戻ってきた。
「冬休みが駄目なら、春休みに行く計画をしっかりと立てとくようにって」
「ユースって会員にならんと、あかんのとちゃうの」
夏樹が少し知っている知識を話した。
「D百貨店にユースホステルの事務局があったはずやなあ」
さすが部長、一番いろんなことを知っている。
「明日は土曜日やし、学校の帰りに行かへんかあ」
「おい上田、お前はええよ、家の近くやから、あの百貨店は」
田端が大きな声で、少々威圧的な言い方をした。
「おれらは学校とは反対方向や、月末の金無い虫には、そこまで行くバス賃も、ましてや入会金を払う金なんかあるはずがないやろ、なあ夏樹」
「その通り、上田と逢坂と岡村の三人でとりあえず様子を見て来いよ。詳しいことを」
田端は夏樹と同じ方向にある中学校から来た。時々、一緒に帰ることもあった。
「分かった、明日の帰りに寄ってくるは。上田も行くやろ」
「しゃあないなあ」
「おれも行かなあかんの」
「岡村!いつも一緒に帰ってんのやから、当たり前やろ」
岡村は下を見ながら小さな声でうなずいた。


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2008.07.27 / Top↑


 ユースホステルの会員になるには、難しい手続きは必要なく、簡単にできると逢坂たち三人は下調べに行ってきたことを部室で報告した。顔写真が必要なので、スピード写真に寄って、そのままD百貨店のユースホステル協会事務局へ行くことにした。
「冬休みが終わってからな」
「おれも、そうしてほしい。冬休みにバイトして残しておくは」
田端と本村が遠慮ぎみにぼそぼそと言った。

「さて、会員証についてはこれでよし。問題はどこへ行くかやな」
「何泊するんや、それによっていくとこも変わるやろ」
「何泊って、そんな長いことどっかへ行くのか」
「はじめてやから、一泊でええのとちゃうか」
「まあ、どこでもええけど」
もともとこの部へ入部したきっかけが、先生の目が届きにくくて、タムロできるところと、とても不順な理由なので、旅とか旅行とかにはほとんど知識も、希望もましてや理想などもなく、できればどこへも行かないほうが良いなあと思っている輩が多く、積極的に意見を出しての話し合いなどはありえないのだ。

「やっぱりなあ、はじめてやから一泊でいけるところで、手ごろなとこて言うたら、奈良方面はどや」
部長の逢坂が提案した。
「せっかく行くのに一泊ではもったいないで、二泊にして飛鳥、吉野まで足を伸ばそうや。桜には少し早いけどな」
夏樹がようやく口を開いた。彼にとって飛鳥、吉野方面は未開の地域だ。飛沢とのサイクリングクラブでは京都より南方向へは行ったことがなかった。南方向は交通量が多く、自転車で向かうには少々難しいからだ。

「たしか、そこのロッカーに奈良のガイドブックがあったはずやなあ」
「安達、お前いつの間にこのロッカーの中を調べたんや」
田端が不思議そうな顔をして聞いた。
「いつの間にって、初めてここへ来た時に逢坂と夏樹と三人で見たんや」
「一応、一通り全部見た。どういう所か分かっとかんとなあ」
逢坂が当たり前のことをしただけだ、といった口ぶりだ。
「けっこう色んなもんが入ってるで、旅の情報誌とか、地図や時刻表とか。時刻表はちょっと古いけど、中には古すぎて、おれには興味あるなあ」
夏樹が得意げに話した。



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2008.07.30 / Top↑


「いいんじゃないか」
突然、顧問の田代先生が入って来た。
「びっくりしたなあもう」
「来るなら、来るって言ってくださいよ」
「本村、お前がここで悪いことしてへんか、見にきたんや」
「なんにも悪いことなんかしてませんて」
「飛鳥、吉野方面なら、三日間でゆっくり廻ってこれるし、ユースもいいとこがあるはずや」
田代先生は学生時代に日本全国を歩いて旅をしたと、逢坂が聞いてきた。いわゆる『カニ族』の走りのようなもので、一日に五十キロも歩くことがあったようだ。ユースホステルはその時に利用したようだ。夏休みを中心に三年間で全国を廻り、ユースには百箇所以上に泊まった。ただ、毎日は泊まらなかった。安いとは言っても毎日となると経済的に少々きつく、三,四日に一回ぐらいの利用だったようだ。ユースに泊まらないときはどうするか、無人の駅や寺、神社の軒で寝袋一つにくるまって寝ていたそうだ。

「何時のどこ行きの電車に乗って、どこを見て廻わるか、時刻表と、ガイドブックを見ながら、ちゃんと計画書を作っておくように。田代と本村もサボらんように」
「はあーい」
田端と本村は先生とは目を合わせずに、少しふてくされた顔つきで、小さく返事をした。


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2008.08.01 / Top↑




 春休みになり予定通り二泊三日で奈良、飛鳥、吉野方面へ行くこととなった。会員証は七人とも一緒に入会手続きをしたが、今回、参加したのは部長の逢坂、安達、岡村、そして夏樹、先生を含めて五人。
 だいたいのコースを先生に報告して、それならば、と泊まるユースホステルを先生の意見で、『山の辺の家ユース』と吉野『喜蔵院ユース』となった。喜蔵院ユースは宿坊の一部をユースホステルとして開放している。
 近鉄天理駅から日本最古の道と言われている『山の辺の道』を歩き、この道の途中にある山の辺の家ユースを目指す。

「本村と田端がいないと、誰もしゃべらんなあ」
先生が天理駅を降りるとぼそぼそと言った。
「まあ、もともとおとなしめの四人ですから」
「いや逢坂はいつもなら、ようしゃべるけど、今日はなんか知らんけど静かやなあ」
夏樹と逢坂は中学校もクラスも違うが、なんとなく気が合うようだ。
「本村のおもろないギャグに突っ込みを入れるのが楽しみなんや」
「たしかにあいつはようしゃべるし、おもろないギャグばっかりやしなあ」
安達がようやく口を開いた。いつものように話す相手を見ていないけれど。

 近鉄天理駅前の商店街を歩きながら、岡村は飲み終えた缶コーヒーの空き缶を道路の真ん中に、素早い動きで音も立てずにそっと置いた。それとほぼ同時に黒い法被を着た男の人が前方右側より、岡村に近づいて来たかと思った次の瞬間、岡村より素早い動きで空き缶を取りそのまま歩いていった。その一部始終を岡村より少し後ろを歩いて見ていた、安達と夏樹が顔を見合わせて岡村に走り寄り
「あほか、お前なにやってんねん」
「すぐに誤ってこいよ」
安達が岡村の後頭部を軽く叩いた。
しかし、法被を着た人は早足で歩いていったので、商店街の人ごみに紛れてしまい、見失ってしまった。
「しかし、早い動きやったなあ」
「おれ、あの人に怒られるかと思った」

 もう少し後になってから気がついたのだが、ここの周辺にはごみが落ちていない。先ほどと同じ法被を着た人たちが、あちらこちらで箒を持ってそうじをしていた。


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2008.08.04 / Top↑



 ガイドブックに載っている名所、旧跡を廻り、山の辺の道を南下して行った。
「京都に比べると地味目の観光地やなあ」
「けどこっちの方が歴史は古いし、いにしえのロマンを感じるなあ」
「逢坂、お前ってそんなにロマンチストやったか」
夏樹が逢坂を下から見上げるように言った。
「そうやぁ、知らんかったかあ」
「どちらかといえば、エロチストとちゃうか」
「安達クンうまい、座布団三枚上げる」
「何でやねん、おれはエロチストなんかとちゃうでぇ、ロマンチストや」
「エロチストかどうかは知らんけど、ロマンチストには見えへんなあ」
「先生までなんちゅうことを言うんですか」
 他愛もないくだらない話をしながら、五人は山の辺の道を歩いた。

 午後四時ごろだっただろうか、先生がユースホステルに着いたことを教えた。
「先生ここが今日泊まるユースホステルですか」
岡村が不思議そうな顔をして聞いた。
「ホテルみたいにビルじゃないし、旅館みたいに大きな庭があるようには見えへんし、ちょっと大き目の普通の家なんですけど」
「ユースホステルはさまざまあってな、ホテルみたいに大きいところもあるし、旅館みたいに大きな庭があるところもあるし、ここみたいに普通の家みたいなところもある」

 会員証をフロントに出して宿泊の手続きを済ませ、シーツとを貰って部屋へ入った。四人分の二段ベッドが左右の壁にあり八人部屋になっていた。
「こんにちは」
すでにこの部屋に入っていた大学生らしき男の人が三人、夏樹たちに声を掛けてきた。
「こんにちは」
先生がすぐに反応して挨拶をした。夏樹たち四人はわずかに首を傾げることしかできなかった。
「お前ら、ちゃんと挨拶をせんとあかんやろ」
「もしかして君たち高校のユースホステルホステルクラブなのかい。それで今日が始めての宿泊なの」
肩ほどまでに髪を伸ばして、細くて背の高い人が話してきた。
「こちらが顧問の先生ですか」
さっきの人よりもっと髪が長く、少し不精髭を伸ばし、メガネを掛けた人が聞いた。


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2008.08.06 / Top↑




「おれたちも、高校の時はユースホステルクラブだったのですよ、みんな別々の大学に進学したので、今回はその時の仲間と、久々の同窓会旅行に関西方面へ来たのです」
「予約しないで飛び込みだったので、三人と四人と三人の別々の部屋になっちゃって」
「別の三人は女なんですけどね」
角刈りのいかにも体育会系のがっちりした体の人が、少し寂しそうに話した。
「おまえ、エリちゃんと同じ部屋じゃないから寂しいのか」
髪が一番長い人がひやかした。
「バカ言ってんじゃねえよ」
少し赤い顔になった角刈りさんが下を向いてしまった。
「あっすいません、われわれだけで盛り上がっちゃって。じつはタカは、こいつ川田孝弘で通称『タカ』がですね、そのいま名前の出てきたエリちゃんとですね、大学を卒業したら結婚することを約束していまして」
「おい、やめろよ」
赤い顔がますます赤くなって、さっきよりもいっそう恥ずかしそうに、髪が一番長い人の胸を、軽く握りこぶしでこずいた。
「へえ、おめでとうございます」
突然、逢坂がにっこりと笑顔を作ってお祝いを言った。
われわれ五人は、とりあえず荷物とシーツをその場に置き、それぞれがベッドに腰を掛けたり、床に座ったりして大学生たちの話を聞き入っていた。
 
 埼玉県の県立高校時代にユースホステルクラブに入っていて、長期の休みには必ずどこかへ旅に行ったそうだ。三年生の夏休みには、国鉄(JRになる前の話しです)を使い、二十日間で北海道を一周したそうだ。
「なぜ、二十日間ちょうどなんですか」
いつもよりさらに小さな声で岡村が聞いた。
「それは、北海道周遊券の期限が二十日間やから。そうでしょ」
鉄道オタクの夏樹が少し自慢げに大学生たちに言った。
「その通り。北海道に入ってから二十日間なので、前の日の夜行で上野駅を発って、翌朝早くの連絡船で北海道に入り、二十日後に再び青函連絡船で青森に戻って、夜行で東京へ」
「正確には二十二日間だよ」
もう一人の大学生が、肩まで伸ばした髪をかき上げながら言った。
 

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2008.08.08 / Top↑


「でっかいどう、北海道ですね」
逢坂が少しリズムをつけて、大きな声で言った。
「北海道かいいですねえ、おれもいつかはきっと行きたいです。緩やかな丘陵地帯に高い山はどこにも見えない、見えるのは地平線とその先まで続く牧草の畑。まっすぐに伸びた道路、そして線路」
 テレビのドラマで見た北海道の景色が、夏樹の頭の記憶の部分に、強烈に焼付けられている。『北海道』と聞くとテレビドラマで見た広大な風景が甦り、いつかは自分の目で見てみたいと思うのだった。

「私は北海道に七ヶ月居たんだ」
田代先生が突然、話しだした。
「もちろん二十年以上も前のことやけどね」
 田代先生の専門は数学。大学時代は数字との格闘を毎日のように続けていた。やり方を間違わなければ、どのような問題も必ず答えが出てくる。要するにそのやり方をいかに導くか、そのための計算と計算をするための公式をどこから、どのように引っ張りだしてくるかなのだと考えていた。昼夜を問わずに本とノートと計算機だけを見つめていた。

「あいつの頭はコンピューターみたいやなあ、と冷たい目線を感じていたよ」
「頭がコンピューターみたいやなあって、褒められてんのと、ちゃうんですか」
逢坂が不思議そうな顔をした。
「決して良い意味ではないんや、ものごとの全てにおいて数学的に、正しいか間違っているかを瞬時に言ってしまうところがあってなあ」
 田代先生はいつもの授業のときとは違う人のように、柔らかい口調で自分自身のことを話しはじめた。

「仲間数人で恋愛映画を見に行った時のことなんやけどな、映画を見終わって外へ出てきた時には、一緒に行った三人の女の子がみんな泣いてたんや」
「恋人が最後には病気で死んでしまうような、哀しい物語なんですね」
角刈りのタカさんが小声で言った。
「そうなんや。そこで私は感情など全くない人間のように、あの場面はおかしい、間違っているとか、あの台詞はこのように言うのが正しいとか言うてしまったんや」
「たしかに、恋愛映画を数学的に分析してしまうと、間違っていることが多すぎる。でも、それを見て哀しくて涙を流している女性の前で、分析結果を言ってしまえば、みんなが興ざめしてしまい、嫌がられるでしょうね」
髪の一番長い大学生が、自分も同じようなことを言って、彼女にふられたことを付け加えて話した。


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2008.08.11 / Top↑



「おれも、その時ふられた。三人のうちの一人に」
 ふられたことはとても悲しく、残念だったことはもちろんだが、それ以上に自分が学んできた数学では解けないことがあり、自分が解き明かしたと思っていた答えによって、時には人を傷つけることがある。今までにそのことに気がつくこともなく、考えることもできなかった自分が情けなくて、ある意味、恐ろしいとまで思っていた。
「その時のショックからなかなか立ち直れなくてなあ」

 教師になることしか考えていなかった田代先生は、ふられた時のことが頭から離れず、大学を卒業したものの教員採用試験に失敗した。教師になることの他を考えたことがなく、来年の採用試験までの一年間を、どのような身の振り方にするか悩んだ。そして、将来の教師としての視野の拡大と後学のために、それと同じ問題でも、二つ以上の違う答えがあるのだろうか、と言う思いを解決するために、あえて今までとは違う世界に自分自身を置いてみたくなった。

「それで北海道へ行かれたのですか、なんとなくわかるような気がします」
髪の一番長い大学生が大きくうなずいた。
「へえ、先生にそんな恋愛物語があったんや」
「岡村。それはちょっと違うやろが」
安達が岡村を羽がいじめにした。
「おいおい、おれかて恋愛物語の一つやふたつはあるでえ」
「先生が別人みたいに思いっきりの笑顔になってるでえ。そんなにおもろい話しやったら、ゆっくりとその恋愛物語の第一話から聞かせて下さいよ」
逢坂が興味津々である。
「いや、それよりさっきの続きの北海道の話が先や、恋愛物語の第一話はその後や、それが話の流れっちゅうもんや」
夏樹の言葉に大学生の三人も大きくうなずいた。

「いや、その前に風呂や、お前らどのベッドに寝るか早よう決めろ。毛布二枚の間にシーツを入れて、寝られるようにセットして、風呂に入るぞ。ユースホステルでの生活は時間厳守、自分のことは自分でやる、風呂の後は夕食やで」
 田代先生が入り口に一番近い左側の下のベッドに一枚目の毛布を広げて、フロントで貰ったシーツを広げた。その上に二枚目の毛布を置き、頭を置くあたりに枕を置いた。シーツは片側が開いた袋になっていて、その袋の中に自分の身を入れて寝るのである。
「さっ、行くぞ」
「はい」
夏樹たち四人と同時に大学生の三人も元気な返事をした。

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2008.08.15 / Top↑




 ユースホステルの食事はホテルや旅館のように豪華な食事ではないが、おかわりは自由である。ところによってはとても豪華な(価格の割には)食事のユースホステルもあるし、オフィス御用達の弁当屋の宅配夕食が出てきたり、メロンパンと牛乳一本が朝の枕元に置いてあったりと、様々である。
 観光ホテルの一部が、ユースホステルになっているところに泊まった時は、山側の少し見晴らしの悪い部屋だったけれど、和風のいかにも観光ホテルの部屋で、同宿者と二人だった。食事はこの観光ホテルに泊まる一泊二食付の夕食メニューから一品だけ減らした料理で、立派な刺身や天ぷらが付いた。逆にこの日の宿泊は一人なので、外で食べてきて、と言われたユースホステルもあった。

「紹介します。残り三人の淑女と、四人のヤロウドモです」
肩まで髪を伸ばした大学生が夏樹たちに、他の仲間を紹介した。
「おい、トシ、四人のヤロウドモて誰のことなんだよ」
「まままあ、そしてこちらは・・・」
「こんにちは、京都の高校生の逢坂と言います。あのう、エリさんてどの方なんですか」
逢坂が三人の女性を満面の笑みで、覗き込むように身を乗り出した。
「えっ、なぜ私の名前をしっているの」
「おいおい、逢坂君やめろよ」
角刈りのタカがあわてて椅子から立ち上がり、逢坂を制止した。
「美人さんですね。タカさん」
「あなたたち、もうそんなに仲良くなったの、私も仲間に入れてよ」
タカとは対照的に物おじすることなく、京都から来た高校生に興味がいっぱいで、目を輝かせていた。

 肩まで髪を伸ばしたトシがここまでの経緯を簡単に話して、先ほどの続きの話を田代先生に頼んだ。
「まあ、その前に目の前のご馳走をいただこうよ」
「そうですね、では皆さん、手を合わせて、いただきます」
エリが大きな声で先導した。
「すいません、彼女は小学校の先生になるのが夢で、先日、教育実習で一年生を受け持っていまして」
トシが申し訳なさそうに話した。
「ええなあ、若くて元気で美人の先生、エリさんが先生になったら一年生になろう」
「面白い子やねえ」
全員で大笑いして、十六人で『いただきます』を言った。



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2008.08.18 / Top↑

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