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 もう六月、今年も半分が終わるところである。
 それなのになんだか最近の天気はおかしい。いまだにストーヴを片付けられないでいる。最高気温が二十℃を超える日がほとんどないからだ。世間では地球温暖化、暖冬などと、暖かい表現が多いが、今の東北は寒い。日中はストーヴを焚き、夜、寝る時は毛布を掛けている。

「どこが地球温暖化なんや」
 と叫びたくなる。

 東北地方などの雪が多く降る土地のひとたちは、それ以外の地域の人たち、(日本の人口の七割から八割ぐらい(?) の人たちが暮らしているのではないだろうか)よりは、春がとっても待ち遠しいのだと思う。この地に住んで二十年目、年々その気持ちが強くなってきた。

 特に今暮らしている東北の山奥の田舎(地元の人に見られたら怒られるかな)では十一月末から三月末までの四ヶ月間は、家の周りから田畑一面、時には道路も雪に覆われてしまう。覆われるだけではない、毎日のように降り積もった雪をブル(この地域の人たちは除雪のための重機のことをこう呼ぶ)が道路脇に山積みにするから、我が家の窓からは外の道路を走る車が見えなくなる。二メートルは積まれている。

雪2
 (クリックすると大きくなります)

この大量の雪が、春になれば本当になくなるのだろうかと、心配になる。それぐらいに多くの雪が積もる。ほとんど雪の中に家が埋もれていると言ったほうが、表現としては正しいのではないか。
 毎日のように降り積もる雪は、毎朝のように三時頃からブルが押し寄せていく。十一月ごろの初雪の時に来るブルは、
「ゴーー!ーー!ーー!!!」
と、けたたましく、大きな轟音にさすがに飛び起きてしまう。しかし、三回目ぐらいからは慣れてしまって、朝になってはじめて気が付く。

「あぁ、ブル来たんや。また、寄せなあかんなあ」

 家の前に押し寄せられた雪は、機械が力任せに押し固めたような雪の塊となり、時には一メートルにもなる。

 つづく





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2008.05.31 / Top↑


 今回は、僕の旅以外のこだわりについて少し目をかして下さい。
 次女が生れる前だからもう十四年目になるかな、禁煙をしてから。もともと本数は少なかったから、比較的らくに止められた方ではないだろうか。
「今日から禁煙」
 なんて始めれば、必ず苦しんで、かえってストレスが溜まって胃を痛めかねないので、少しずつ減らして行って、最終的には禁煙に成功した。今回はこの禁煙についてではない、タバコを吸っていた頃のこだわりについてだ。

「タバコにしよう」
 とこの地の人たちは休憩の意として、普段から使う。女の人もタバコを吸うわけではないが、休憩をする時には
「タバコだぁ」
 と声をかける。
 もう、時効だけれども十八歳からタバコは吸っていた。そして、二十歳の頃から、この地の人たちの言う「タバコ」の意と同じような気持ちで、タバコに火を点けた。
 タバコを吸おうと思った瞬間から休憩、イップクのモードに入るわけである。
 吸うタバコに、まずこだわる。白いフィルターは柔らかく、唇にくっ付いてしまうことが嫌いなので、茶色いフィルターのものを選んだ。その当時の茶色のフィルターは「ハイライト」か「キャビン」ぐらいで他には値段の高い洋モクしかなく、選択の範囲は限られていた。数年後には対米貿易黒字の関係なのか、国産品と同じぐらいの値段になって「マールボロウ、ラッキーストライク、キャメル、ラーク」などを吸っていた。

 次に火を点けるものにこだわる。ジッポーのオイルライターがベストだけれど、親父が使っていた国産のオイルライターを使っていたこともある。ライターがなければ(オイル、ガス切れ)マッチにする。マッチの場合は点けかたと消し方にカッコをつける。
 1940年代を舞台にしたアメリカ映画に小雨降る夜のネオンの下で、ツバ付の帽子に、ビシッとスーツに身をまとい、遠くに逃げ去る犯人を目で追いながら、ゆっくりと銜(くわ)えたタバコに火を点けるハンフリー・ボガートのイメージで火を点けて、そして消す。いわゆるナルシストである。
 いつもハンフリー・ボガートのイメージでタバコに火を点けるわけではないが、ほんの五分ほどの「イップク」の時間を頭の中から足の先まで休めることができる。その当時のストレス解消法の一つなのだ。百円ライターは絶対に使わない。

 おねいさんが横に座る飲み屋さんに行くと、タバコを銜(くわ)える瞬間に火を点けてくれる。おそらくどこの店でもそうだろう。時には、おねえさんの手元近くの見えにくい位置に、箱から半分だけ出して置かれたマッチで、またはブランド物のスマートなライターで、しぐさもあざやかに美しく差し出してくれる、気持ちのよいものだ。
 百円ライターで炎の大きさを最大にして、目の前で「ボッ!」とやられたのじゃ
「二度とこの店には来ないから」
 と怒鳴ってやりたくなる。
こんな僕のこだわりは、変だろうか。
 もちろん、灰皿のない所では吸わないようにしていたつもりだ。
 最低限のマナーだから。


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2008.05.30 / Top↑


 ここで問題?
『交差点であなたは直進、対向車は右折しようといています。どちらが優先でしょう』
 私はあなたが優先だと思う。しかし、対向車が優先というローカルルールが存在する地域があるようだ。
 コンビニの駐車場に車を置けるのに、入り口付近の歩道に停める、障害者スペースに堂々と停車。運転中に窓から、投げられる火の付いたタバコ、止まれを無視して飛び出す原付バイク(目の前で目撃した。その人は右から来た車に激突して、道路に投げ出された。幸い軽症ですんだ。) 無灯火の自転車(田舎は暗く車通りの少ない道が多いから、とにかく発見が遅くなる)、車道を車の直前横断する歩行者。

 こんな事例はほんの氷山の一角に過ぎない。とにかく車、バイク、そして自転車、歩行者までがマナーが悪くなった。こんな田舎でも危なくて、安心して通行できない。どんなに適切な速度で安全運転していても、相手が向かってくることもあるから、なんともしようがない。

 この辺りの中学生が自転車を運転する時は、ヘルメットを被り、どんな交差点でも降りて渡る。車が止まれの標識で止まっていても、車が通り過ぎるまで渡らない。すごく安全運転なのだが、なぜか高校生になると、突然悪くなるのだ。このギャップはなんでなんやろう。
 手本となる大人が正しい運転マナーを守らないからなのか、中学校では学校で決まっているからと言って、校則を守るのと同じ感覚なのだろうか。
 もう少しまじめになろうよ。僕も気をつけよう。





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2008.05.27 / Top↑
『優良ライダー』

 先日、緩やかなワインディングロードを(毎日、仕事で通るいつもの峠道)走っていた時のことだ、僕より3台前の軽トラックが少しゆっくりと走っていた。そのためか、僕の後ろにも4,5台の車がつながっていた。この道は、はみ出し禁止で法廷速度は50キロ。追い越そうにも先の見通しはあまり良くないカーブがつづく、生活道路だから、車の通行量も比較的多い国道だ。

 そのときだった、バイクが反対車線を、すいすいと後ろの車を追い越して近づいて来るのが、ミラーに写った。1台や2台ではない。数台の年代ものの古いバイクが、オレンジ色のはみ出し禁止の線を越えて、ぶっ飛んできては、追い越していった。2,3台づつが次々と追い越して行く。対向車が来れば、車と車の間に無理やり入ってやり過ごす。僕の運転する車の目の前にも割り込んで、対向車をやり過ごし、すぐにはみ出して加速して、前の車を追い越して行った。

『バカやロー、調子に乗るなよう!』


 思わず叫んでしまった、聞こえるはずもないのに、思いっきり大きな声を出してしまった。巷で社会問題となっている二十歳前後の若者たちの、暴走行為と一緒ではないか、運転しているライダーの顔を覗いて見ると、僕より年上の人たちばかりのようだ。

 あなたたちは愛するバイクを毎日のように磨いて、きれいにして、たまの休暇を仲間と一緒に遠い所(関東周辺のナンバープレートだった)からツーリングに来たのではないのか。

 ずっと手前で休憩中のあなたたちを見かけたときは、とても羨ましく、すてきな人たちに見えた。みんなが少し古いバイクにまたがり、スキッとしたライーダースーツに身をつつみ、さあ出発だ、といった感じだった。とても素晴らしい光景で、年を重ねても輝けることは素晴らしいと思った。
 そう、あなたたちは「優良ライダー」ではないのですか、巷の暴走族たちが、バイクのイメージを悪くして肩身の狭い思いをしている人たちと共に、心よりバイクを愛し、バイクと一体になって走ることの素晴らしさを、「バイクは良くない」と思っている人たちに理解してもらい、

『一度乗って見たい』と思ってもらわなくてはいけないのではないのか』
 とても残念である。

つづく


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2008.05.26 / Top↑


「こんにちは。いや、こんばんは。次の電車はいつくるのかな」
 とてもその風体からは想像もできないような細くトーンの高い声に
『エッ!何か期待はずれ』
 がちがちに緊張していた僕の体を一瞬にしてほぐしてくれた。

「電車は来ません」

「エッ、こないんですか。困ったなあ」
 もしかしたら今にも泣き出すのではないかといった困り果てた話し方になった。
「ここは電化されていない線路なんで、電車は来ぃひんよ」
「それは困った、そうすると今夜はここで野宿することになるのかなあ」
 ますます、声のトーンが高く細くなってきた。
「いや、そう言う意味とちゃいます。一時間後には次の列車が京都から来ますよ」
 狐につままれたような顔つきで僕を見つめてきた。良く見ると黒ぶちの眼鏡の奥には小さく丸い目が見える。かなり度の強い眼鏡のようで、眼鏡の中に見える顔の輪郭はかなり小さく、不自然に見えた。
「電気で走る電車は来ぃひん。列車は来る」
「あぁ、良かった。じゃぁ野宿はしなくてもいいんですね」
 にっこりと笑いながらありがとうを言ってくれた。

 東京から来たというその山男風の人は、全国を旅していて、丹波地方へは二回目の訪れだと言う。いつもこの大きなリュックにこの服とこの帽子をかぶって、お金が無くなるまで旅を続けるのだそうだ。
 お金がないからヒッチハイクで移動して、無人の駅や神社や寺に野宿しながら、気の向くままの自由な放浪の旅人、と自らを語った。今日はこの先の小さな山村の友人の所へどうしても行かなければならないので、僕が乗ってきた列車に京都から乗って来たようだ。

「ヒッチハイクはね簡単だよ。ドイツに行った時はベンツにだけ手を上げて乗せてもらうんだよ。どうせ乗るのなら高級車がいいじゃない」
 世界中を旅した話を細い声で一人、話し始めた。
「へー、へーすごいなあ」
 この言葉しか返すことができないほどの感動と、驚きの連続が続いた。
「でも、冬のヒッチハイクは大変なんだよ。せっかく乗せてもらったのに居眠りできないでしょ、あの暖かい車内は睡魔との闘いだよ。足に青あざができるまでひねり続けて起きているの。居眠りしないのが最低限の礼儀だからね」
 切れかけの蛍光灯がある薄暗い山里の小さな駅にいることを、無精ひげの旅人は忘れさせてくれた。
 ほんの数分の間だけの会話しかしていなかったかのように時の経つのが早く、話の途中で福知山行きの列車に乗る人たちが駅舎を抜けて、ホームに入って来た。
「まもなく二番線に列車がまいります」
 構内放送が流れて荷物を片手に待合室から二人並んでホームへと歩いた。この後も、放浪の旅人は多くの話を聞かせてくれた。その人が降りる駅まで。

 このときの出会いが東北のこの地までたどり着いた原点かもしれない。あの人は今も旅をしているのだろうか。僕は東北のこの地を旅の終着点にしている。
 
 今のところ。




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2008.05.24 / Top↑
気動車


 広さが六畳ぐらいのホーム上の待合室に、建物の端から端まで、作り付けの木のイス(縁台のようなもの)があり、蛍光灯は一本しか点いていない。駅舎にも薄暗い蛍光灯が数本点いているが、今にも切れてしまいそうなのが二本点滅している。時々,烏のような鳴き声が「バカア」と聞こえてくる。

 九月末の山里の夕暮れは、少し肌寒く風が冷たい。待合室の木戸が長年の風雨に晒されて細く薄くなって、ガラスが枠からはずれてしまいそうなぐらいに、少しの風でガタガタと音をたてて揺れている。戸の揺れる音と時々聞こえてくる烏のような鳴き声以外には何も聞こえてこない。僕一人だけがそのイスに座り、次の列車が来るのを待っていた。

 突然ガラガラと木の戸が開いた。飛び上がるような驚きを、声を出さずに身体が感じた。身体の全体が鳥肌状態に陥ってしまった。
 なぜか、上半身が起立状態で、両方のこぶしを硬く強く握り締めて、それぞれひざの上にきちっと置いたまま。顔は、何も見えない窓の外の一点を見つめるように、真正面を向いて、目だけは入り口の方向へゆっくりと動いていった。

 横目つかいの視線に入ってきたのは、大きな荷物を担いで髭を伸ばし、薄汚れた服を着た大きな人が、入り口の木戸を前屈みになって入ってくるのが見えた。
 山からいま帰って来ました、といった風の大柄なその男の人は、木の戸を閉めながらチューリップハットを片手に持って頭から脱いだ。チューリップハットを被っている時はきづかなかったが、髪も不精に肩まで伸び放題だ。前髪も伸び放題でその隙間から顔がのぞいていた。黒ぶちのメガネをかけていた。
 ドキドキしながら声も出さず、座ったまま身体が動かない。目だけがその大きな身体の男の人をキョロキョロと見つめていた。



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2008.05.23 / Top↑


 気動車(電車のように機関車はないが、電気ではなくディーゼルで動く列車)の五両編成ぐらいだっただろうか八割ぐらいの混みぐあいだった。一駅一駅止まるごとに降りる人はいても乗ってくる人はほとんど無く、列車の乗客は減って行くばかりだった。
 十月も近い秋の夕暮れは早く訪れてくる。この列車の終着近くになると、とっぷりと日が暮れて、あたりはだいぶ暗くなった。車窓からは遠くに点在する民家の明かりがぽつぽつと見えるぐらいで、他には何も見えなくなり、車内の乗客もかなりまばらになってきた。少し心細くなって来たけれど、そこは中学生としてはヤセガマン。

 五時半ごろにこの列車の終着駅に着いた。列車は海の見える駅までの三分の一ほどのところの駅までしか行かない。とりあえず先へ進めばそのうち目的地に着くだろう、何とかなるだろうと言う気持ちだけが先行して、 
「今日中に向うに着けばエエニャから」

 小さな駅舎に駅長さんが一人だけで、他には誰も居ない小さな駅。下車した人はほとんど駅から出て行った。ホームには十人も入れば一杯になるような待合室があり、一本だけの暗い蛍光灯が点いていた。駅前にはまばらに家があるだけで、駅前商店街と言った賑やかなものは何も無かった。駅舎の反対側には山がせまり、かすかに月の出ていない暗い空と山の境が確認できた。とにかく真っ暗だ。

 駅舎に向かった最後の一人が改札口から出て行くと、切符を集めていた駅長がゆっくりと僕の方に寄ってきた。
「乗継ですか」
「はい」
「次は六時三十分まで来ないですよ。京都駅からきます」
 と言うことは慌てて乗らなくても、次の列車に乗ればよかったのだ。こんな真っ暗な田舎の駅で一時間も待たなくてはいけないのか。

『ブアーーーンー』

 乗ってきた気動車が京都駅めざして発車していった。ますます静かになった。

  つづく




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2008.05.21 / Top↑


 僕の一人旅第二弾は中学に入ってからの秋だったと思う。父方の曽祖母の五十回忌に父の代理で山陰の漁師町、親父の実家へ行ったときだろうか。あの春休みから半年後である。親父が忙しく、日曜日と祝日の連休なので急きょ僕が行くことになり、土曜日の午後に家を出た。駅を三時過ぎの急行に乗れば、七時過ぎには海の見える駅に着く予定だ。

 駅まではバスに乗り三十分ほどで着くから、自分なりに逆算して家を出る時間を考えていた。前回の初の一人旅より少し成長したのか、余裕が出てきてゆっくりと準備をして、予定より少し遅く家を出た。
 そんな時は少しずつ次の段取りが遅れてくるもので、バス停のちかくで信号待ちをしていると、目の前を駅へ行くバスが通りすぎて行き、十分に一便ぐらいにバスが来るにもかかわらず、なぜかその時だけは二十分後に次のバスが来た。道路も混んでいて駅に着いたときが、三時過ぎの急行の発車する時間だった。

 しかし、焦らなかった。数年前に漁師町の従兄弟が、三回か四回乗り換えて気の向くまま予定も立てずに昔、都のあったこの地へ来たことを思い出し、
「何とかなるさ」
と、かなり楽天的に次のドン行にとりあえず乗った。三時四十分ごろだったろうか。この時、時刻表を確認しないでしまったのがトラブルの発端となった。

中学一年生の怖いもの知らずの向う見ず
気まぐれ旅のはじまりだ。




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2008.05.21 / Top↑

「まもなく五十?」

 歩いていると腰が砕けたように、急に力が入らなくなって[ガクガク]と座り込んでしまいそうになる。もしかしてギックリ腰になる前兆か、と十五年前の悪夢が蘇る。
 テニスコートから救急病院へ直行して、十日間の入院をしてしまったあの事件からちょうど十五年になる。
救急病院の入り口で車から降りるのに五分はかかっただろうか。
「そこに外来用の車椅子がありますよ」
 親切な方が教えてくださっても、その車椅子に座ることができない。車の座席からやっとの思いで激痛と戦いながら立ち上がったのである、車椅子に座るのも死に物狂いで激痛に耐えなければならない。だからこのまま友人の肩を借りて診察室へ歩いたほうが、時間はかかるけれど激痛は走らない。
 どうせ診察室に入ったら診察用のベッドに上がらなくてはならない、激痛が走るのをできるだけ少なくしたい。そんな思いが無意識にはたらいた。
 ベッドにあがることはできなかった。サッカーの試合中に負傷した選手がフィールドの外に運び出されるときに乗せられるようなタンカーを縦にして、それを僕の背中に当ててゆっくりと倒し

「ゲェグァーー!」

4人がかりでタンカーごと診察台へあげてもらった。

「ヴァーグェー!」

とにかく少しでも体を動かそうものなら、何をやっても激痛が腰の左側の一点に走る。

「ゲェグァーーー!」
とにかく痛い。あの時は多くの方にご迷惑をかけました。
 あの時以来、何かと腰の具合が思わしくないことが多くなり、疲れが溜まってくるとなんとなく腰が重くなってきたり、それを無意識に庇うと、背中の他のところが痛くなったりして、何回も整形外科に通った。

 腰の状態を良くするには適度の運動がよく、特に腹筋を鍛えて腰への負担を少なくすること、できるだけ身体を動かすことを心がけた。せめて一週間に一回は何かスポーツをすることを目標にした。
 四年ほど前からはママさんバレーの練習相手に参加している。会社の人たちの中では運動をしているほうではある。

 しかし、あの事件からちょうど十五年がたち、入院こそしないけれど歩くのも困難な状態が先日から続いていた。
「んー、ここの背骨の骨と骨の間の軟骨が少し減ってきていますね」
レントゲンの写真を見ながら医者が言った。
「まもなく五十歳ですかあ、まあそろそろ身体は、あちこちがねえ」
要するに年をとったのだからあまり無理をするなと言いたいようだ。
「しばらく痛みがなくなるまで安静にして寝ていてください」
確かに人生の半分は終わったと思う。しかし、この程度のことで歩けなくなるほどのことになるとは、われながら情けない。こんなにも体力がなくなってきているのだ。
 
 冬には毎日の雪寄せがきつかったのか三年前は左手、昨年はその左手を庇ったからなのか、右手が腱鞘炎となり八月ごろまで整形外科に通った。年配の人が多い整形外科には僕は若い方だ。医者も看護士も事務員も顔なじみになってしまった。
 三十路を超えたとき以上に、四十路は角度の大きな坂を歩いているような感覚をおぼえている。
 謙虚に受け止めて、対策を考えよう。




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2008.05.20 / Top↑
「構造改革」
 大きな課題にチャレンジ!
 元首相の小泉さんは様々な「構造改革」を打ち出し、日本中の人々の大きな反響と期待が政治を注目し、多くの支持を集めた。

 今までと違うことをして、より良いものにしていく。改革を推進するには、旧態依然とした体質への挑戦だと思う。
 ほとんど全ての新しい技術や発明を、誰よりもさきがけて成功させた人たちは、周りからは変人扱いされたりもする。しかし、そんな外野のことはおかまい無し。信念を持ち、自分を信じて成功へと導いていく。
 また、何ヶ月、何年もの期間をかけての成功裏には、会社やその上司たちの篤く大きな心があるからだろう。

 僕が現在住んでいる地域に「クチアンヴェイィ(少々違うかな)」という言葉がある。
 あまり良い意味では使われないようだ。口先だけ、言い回し良くじょうずに喋る、うそも方便、調子良い人と言った具合のようだ。しかし、この「クチアンヴェイィ」人が世の中をうまく立ち回り、そうでない人よりしょうしょう楽をして世渡りをしているような気がする。

 社会においても、職人といわれる人たちは腕が勝負、喋る必要なし、となると「クチアンヴェイィ」人にうまく使われて損をすることが多いように思う。時代劇にありそうな話だ。
 企業や役所でも、まじめにこつこつ働いている人は、喋りは苦手な人が多いのではないか、真剣に一生賢明がんばっているから、無駄口をたたかずに仕事をしている。そうでない人ほどいろいろと「クチアンヴェイィ」人が多いような気がする。

 「クチアンヴェイィ」

が必要な仕事もあるが、問題は企業や役所においての先輩、上司、といった上の立場の人が、「クチアンヴェイィ」人のいうことに、耳を傾け、取り上げることが多いのではないか。喋りが苦手でも真剣な意見は却下されて、同じ内容の意見をいっても「クチアンヴェイィ」人が話すとすんなり採用されたりする。そんな見極めができない先輩、上司が多いから、この国はダメになったような気がする。特に役所は,「見て見ぬ振り」「馴れ合い的慣習」「見栄」「出るくいは打たれる」
「クチアンヴェイィ」だけでエラクなった人も多いのではないか。
「クチアンヴェイィ」を見極めて正しい意見を見出していかなければ『構造改革』は成しえないだろう。

『昔のやり方が、すべて良いとはかぎらんではないか』

また、何かの時代劇の受け売りです。すんません。


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2008.05.19 / Top↑
「旅のはじまり ④-2」

 クラブ員の重要な活動のひとつに、新聞のスクラップブックを作ることがあった。
 新聞に載っている鉄道関係の記事を切抜き、ノートに張っていくのだ。各地の路線で蒸気機関車が廃止されていく、「さよならSL」の記事、日立家電のスポンサーによる「ポンパ号」、どこかの百貨店で開催される「SL展」の広告記事、そして、毎日汽車を見に通った山陰線の「SL、さよなら運転」の記事。鋏で切った切り口も雑で、どれもが黄ばんでいるが当時のことが思い浮かんでくる。
 (全て現存)
 そのノートが小学校の「秋季大運動会」の記念品のノート。
 そして、なぜか最後のページには「山陽新幹線、岡山まで延伸」の記事だ。
 小学校三年生が少なくとも、新聞をペラペラと毎日めくり、見ていたのだという事実を今さらながら、自分自身に驚いている。いま、高校生の息子は、テレビ欄と、「こぼちゃん」しか見ない。

 とにかく、鉄道の記事なら何でも切り抜いていた。私鉄電車の脱線事故、大雪による遅れの記事、鉄道百年の特集シリーズ記事、そして廃止される汽車への異常なファンの行動を書いた記事。各地の路面電車の特集記事、廃止の記事。などなど、鉄道に関することは何でも切り抜いている。
 
 うっかりすれば見逃してしまうような、SL切手発売の小さな記事もある。小学生が新聞の隅々まで覗いて、鉄道関係の記事を探しては切り抜いていた。
 ある時、親父が見ていない新聞を先に見て、切り抜いてしまい、かなりきつく怒られたことを思い出した。あの当時はどの家庭でも、父親の権威は大きく、新聞、風呂、チャネル権は父親が一番だった。

 家には一台しかテレビが無いのが普通の家庭だった時代、我が家では八時までが子どものテレビの時間。その後は親父の時間。だから、土曜八時からの
「8時だよ全員・・」は特例だった。野球放送があるときは特例も特例にならなかった。
 一人一台のテレビを持っている今の時代、家族のコミニュケーションが希薄になっている一つの原因ではないだろうか。
「何で勝手に換えんねん」
「おにぃちゃんずるい、今度はうちが見たいの見るんや」
「うるさい、喧嘩すんにゃったら、ニュース見る」
 親父の一言で公共放送局に決まってしまった。

 「巨人、大鵬、玉子焼き」

僕よりは少し上の人たちの時代だとは思うけれど、我が家はもちろん

阪神タイガース』です。

 親父の影響をモロに受け継いでいる。



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2008.05.16 / Top↑
「旅のはじまり 4」

 小学校の3年生だったろうか、鉄道好きの友達が2人で、『鉄道クラブ』なるものを作っていた。鉄道が好きで趣味としていろんな知識を持っていた。蒸気機関車の『C57、D51(デゴイチ)』の『CとD』の意味とか、気動車(ディゼルカー)の『キハ82系(非電化区間の特急)』の『キとハ』の意味は何かなど、かなり専門的なことを彼らは知っていた。経緯は忘れたが3人目のクラブ員として入会したのだ、(登録されてしまった?)

 ノートに蒸気機関車のアルファベットの『B(動輪が2個)』から順に『E(動輪が5個)』まで書いてその横に『B20、C50、C51・・・・D51・・・・E10』と書いた。ディーゼル機関車、電気機関車、気動車、客車、貨車。
 友達のノートを丸写しに自分のノートに鉛筆で書いていった。(現存する)

 『鉄ちゃん』への道がこのとき始まったのだ。

 主な活動は近くを走る山陰本線へ蒸気機関車を見に行くこと。時刻表を見て、何時に上りの○○駅を出発する。それならば何時までにあの踏み切りへ行けば見ることができる。学校が終わって、その踏切へ行くのが日課となった。
 上り、下りの客車、貨車を何本か見ているうちに、
「次は下りの園部行き(京都府)客車が来る。今日は『C571』が来るんちゃうか」
一番詳しい『鉄ちゃん』が誇らしげに語った。すると二番目に詳しい『鉄ちゃん』が、
「ちゃうなあ、『C571』はおとといの下りに来たから、今日は、きいひんでぇ」
と切り返す。
「あっ、来た来た。『C571』やで」
と三番目に詳しい(三人しかいません)僕が覚えたての知識で、叫んだ。

 『C57』の何号機が来るかまで大体わかっているのだが、いま思えば山陰線で走っている『C57』蒸気機関車は何号機が使われているか、毎日見ていれば、だいたい覚えてくる。他の機関区への移動はあまり頻繁には無かったようだし、この周辺で汽車が走っていたのは、ここだけだった。
 蒸気機関車だけではない、ディーゼル機関車も頻繁に走っていた。むしろこちらの方が多かった。
 もちろん見ているだけでは飽き足らず、近くの駅から一駅だけ乗りにも行った。帰りはバスで帰ってくる。
 その時も、汽車が来る数十分も前から、いや何時間も前から駅に入り、来る汽車、通過する特急列車、貨車などを間近で見ては楽しんでいた。ただ見るだけ、カメラなどは小学校三年生では誰もまだ持っていない。

~つづく~



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2008.05.14 / Top↑
「旅のはじまり③-3」

 新幹線が開業してからの日本の鉄道は、とにかく早く目的地に行くことが至上命令のように、線路も列車も改革されていった。電車のスピード化が進んでいる。
 しかし、なぜか今ではローカル線の郷愁を求めて地方の鉄道に人気があるようだ。鉄道ファンも増えているという。三、四十年前には存在しなかった(たぶん?)

『鉄子(女の鉄道ファン)』

も多くなっているという。
 テレビの趣味を特集した番組も、鉄道関係が一番多い。

 数年前から、各地で蒸気機関車(SL)が復活して、定期的に運行されているところが何箇所かある。定期的といっても週末や、春夏などの学校関係の休みのころといった、人々が観光として移動する時期が多いようだ。

SL


 四十年来の鉄道ファンとしては、「SL」の走る姿が見られるのは、とてもうれしいことではある。
 昭和三十九年に新幹線が東京、大阪間で開通した。そのころからだろうか、いわゆる時代の波にのまれるかのように、都市に近いところから「SL」は廃止されていった。
 関西でも昭和四十七年に山陰本線から姿を消した。

 煙害や維持費の問題。経済が発展するとともに、速さ、快適さを求める国の政策として「SL」が各地から姿を消し、採算の取れないローカル線は廃止されていった。一部は第三セクターとして経営存続されたが、長続きしなかったところも多いようだ。
 輪廻転生と言えば少し大袈裟な話になるが、戦中、戦後の遺物のような扱いを受けてきた「SL」が、二十一世紀のいまでは地方観光の目玉的存在として、地方の経済発展に一役買っているのだ。なんとも皮肉なものではないか。
 どんなに高学歴で優秀な頭脳をお持ちの政府官僚諸氏にも、未来を予測することは叶わないのである。

 長年の鉄道ファン「鉄ちゃん」としては蒸気機関車が復活するなら、それに引っ張られる客車も当時のものを復活させてほしい。
 今の、青や赤い色の客車はあの真っ黒な蒸気機関車には似合わない。
 ぶどう色の煤けた車体、丸く黄色いぼんやりとした灯りの室内灯、手動の乗降ドア。

『ガッタンゴゴットン ガン』

発車の時に子供が『ガン』と頭を打ち付けるような木の背もたれの座席にしてもらえんやろか。

客車2





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2008.05.12 / Top↑
「旅のはじまり3-2」

 ゆっくりと「ガタンゴトン」と動き出し、少しずつスピードが上がってくる。やがて

「ガタンガガタガタゴトン」

と複雑な音が鳴り響いてくる、ポイントの上を通過しているのだ。より複雑に長く響いてくる時は大きな駅を出て行くとき、小さな駅ではすぐに普通の「ガタンゴトン」に変わっていく。

 その当時の客車は乗降のためのドアを手動で開け閉めするもので、ドアが開いたまま動いていることはよくあった。そのデッキからもう一つのドアをあけて客室に入って行く。
 乗降用のドアを開けたままでこのデッキに立ち、ドアの横にある手すりにつかまり、体中に風を感じながら流れて行く景色を見ているのは、、満足感と充実感そしてなんとも心地の良いスリルを加味して味わうことが出来る。
 特に最後尾の客車は連結部分の幌のところにドアはなく、二本のレールが、右へ左へと緩やかなカーブを描き、見る見る後方へ過ぎ去って行く。少しの弾みで外へ投げ出されてしまうかも知れないスリルを味わえる。

最後尾のホロ


 最後尾のデッキに立ちトンネルに入っていくと、入り口の明かりだけが真っ暗な世界に浮かび上がってくる。そのトンネルがまっすぐであれば、入り口の形をした明かりが黒の中に、少しずつ小さくなりながらいつまでも見えている。そしてどこまでも小さくなって明かりが見えなくなったと同時にトンネルを出る。ゆっくりと

『ガタゴゴットン』

とポイントを通る音がする。祖母の待つ小さな駅に着いたのだ。
 六時間もの長い時間、たった一人で飽きもせんと、景色と『ガタンゴトン』を聞いて楽しんでいる小学生は、今で言うところの『鉄ちゃん』なのだ。
 
 現在では国鉄がJRになり、各地に新幹線、ミニ新幹線が延伸して、地方と都市が益々近くなった。たいへん便利である。しかし、いわゆるローカル線がほとんど無くなった。いたし方ないことではある。民営化された企業としては赤字路線をいつまでも放置しておくことはできない。



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2008.05.10 / Top↑
「旅のはじまり 3」

テレビのバラエティー番組で「はじめてのおつかい」というのがある。小さな子供たちが初めてお使いをしてくる様子を、カメラがこっそりと映して、番組のゲストと一緒にハラハラ、ドキドキして我子のことのように、驚き、肝を冷やし、感心するというものだ。

 人間は小学校を入る前から、様々な初めてを経験、体験しておおきく成長して行く。個々にそれぞれの初めてがある。

小学校六年生の春休み(正確には六年生になる前の春休み)に親父の実家である祖母の家へ、一人で行った。初めて一人で出かけた。駅までは送ってもらい、向うの駅までは迎えに来て貰ったが列車の中は一人である。山陰の小さな漁師町の小さな駅まで、ドン行(普通列車)にゆられて六時間、小さな駅までのはじめての一人旅となった。
小さい頃から何回もドン行にゆられて、祖母の家まで行っているうちに、『ガタンゴトン・ガタンゴトン・・・』とゆられて行くドン行列車は、僕には心地の良い大好きな空間となった。
だまって外の景色を見て、時々虫のなく声しか聞こえないような静かな駅に止まると、反対方向からけたたましい音とともに通り過ぎる特急列車を楽しむ。通り過ぎた後には何もなかったように虫が静かに鳴いていた。

『ガタンゴトン・・・』

を聞いているだけで、あとは何もいらなかった。

df50

 今でもあの『ガタンゴトン・・・』を聞くと心が休まる。
(今の電車達の『ガタンゴトン』は速すぎてダメだ)
 その頃のドン行は、先頭のディーゼル機関車や蒸気機関車が、ぶどう色の煤(すす)汚れした客車を引っ張って走るものだった。
 『ピィーー』と発車の汽笛が鳴り、少し間があってから『ガッタンゴゴットンガン』とゆっくりと動き出す。最後のガンは座席の木の背もたれに頭をぶつける音である。運転の上手な運転手は最後の『ガン』はほとんどなく静かに動き出す、しかし、そうでない運転手は『ガン』とおもいっきり頭をぶつける。子供の僕にはドン行が発車する時に起こる『ガン』の振動には到底勝ち目はなく、不意に襲ってくる動きにそのまま体を預けるしか術(すべ)がない。木の背もたれにかなり強く頭をぶつけてしまう。
 しかし、今の電車はとても静かに大きな振動も、音も、頭を『ガン』と打つこともなく『スー』と発車してしまう、あの『ガン』がとても懐かしい。

客車


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2008.05.10 / Top↑
 「旅のはじまり 2」

 中学生になると、十段変速のサイクリング車を持っている友達との出会からますますエスカレートしていった。
 こずかいを貯めて五段変速ではあるがサイクリング車を買った。
(その当時はセミドロップと言って、ママチャリのハドルを上下反対にしたような形で、少し前傾姿勢で乗った。)
 しかし、すぐに中古のドロップハンドルに変えた。
(競輪選手が乗るような、かなり前傾姿勢になる自転車だ)

 これも十段変則のサイクリング車を持つ友人の影響やね。
 土曜日には半日で学校が終わり、午後からは地図を広げて明日はどこへ行こうかと、二人で思案していた。市内にとどまらず隣の市や町にも出かけていった。十段変速の友達といつも一緒だ。今のこの地のように冬に雪が積もることなどほとんど無かったから、冬もその当時の最大限の防寒をして、走っていた。あまり遠くへは行けないけれど。

 日曜日、おにぎりとお茶の入った水筒と、そして地図を持って、目的地目指して自転車を漕いだ。
 昔、都があった街は南を除く三方が山に囲まれているから、南方面以外の隣町へ行くときは必ず峠道があった。
 山道は厳しかった。まず五段変則の僕が音を上げて、自転車を押しながら歩く。さすがに十段変則。僕よりは長く自転車を漕いで坂道を登っていったが、まもなく、自転車から降りて二人仲良く押しながら歩いて進む。
 その横をバイク、車が走り抜けて行く。
「がんばれよー」
と時々声を掛けてくれるドライバーもいたけれど、愛想笑いをわずかに返すのが精一杯だった。
 
 峠付近の見晴らしの良いところで、にぎり飯をほおばれば、この世で一番の美味しいものを食べた気になる。

『空腹こそ最大の調味料』

とは良く言ったものだ。
 峠を越えれば後は下るだけ。この快感がまたすばらしい。先ほどまでの苦労が全て飛んでいく。最高に気持ちよい。
 ただ、この先にはまだ二箇所の峠が待ち受けている。もう二回の苦労を重ねて最後には長い下り道が待っている。
 車では、なかなか味わえない快感であった。
 今、この年になってからでは、なかなか味わえないよね、というより、その苦労を体が受け付けなくなっているのだから、しかたないわなぁ。




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2008.05.08 / Top↑
「旅のはじまり」

高校1年生になった長男が、小学3年のころに、

「ぐるっと一周してくる」

と言って自転車に乗って何処かへ行ってしまう。まだ遠くへは行っていなかったようだが、自分ひとりで出かけて何かを感じてくれているだろうと思う。
 僕が同じ年頃に同じことをしていた。ちょうど小学3年生の誕生日に自転車を買ってもった。
(四十年も前のことである、まだクラスのみんなが持ってはいなかったように思う)

 夜になると家の中にしまいこみ、大事にしていた。いや大事にされていたのだ親父に、自転車が。その当時でもまだまだ、高価なものだったと思う。

 毎日のようにあちらこちらへ出かけて行った。親と一緒にバスや電車でしか行ったことのない所まで、かすかな記憶を辿って、道に迷いながら、覚えのある景色に出会えて感動していた。覚えのある景色の向こうにも道は続いていたから、次回にはその先にも行ってみた。今度はまったく未知の世界に入って行くわけだ。見たことのない風景の中をどこまでも前に進み、自分なりではあるが、新たな発見をして、また感動していつのまにか見覚えのある風景に出会って
「ここにつながっているのか」と、またまた感動していた小学生である。

 今思い出せば、さほど遠いところへ行ったわけではないのだけれど、小学生だった僕は知らない未知の風景に出会えることが、とにかく楽しくてしょうがなかった。

「こないだは右の道に行ったから、今日は左へ」
と、すごいスピードで行動範囲が拡がた。6年生ぐらいになると、日曜日にはおにぎりを作ってもらい、親父の地図を借りて、朝から出かけていった。僕しか知らない近道を(その頃はそう思っていた)見つけたり、素晴らしい風景を見つけて、自分で勝手に名前をつけたりして楽しんでいた。これが東北の雪深い田舎までの「旅のはじまり」である。

 近ごろは、子供がまきこまれる事件が多発していて、子供だけで何処かに行ったり、留守番させたりすることが不安なご時世だけれど、感性の豊かな今の年ごろに、自らの意志で、自らの足で、目で、耳で、また鼻で感じてほしい、自分なりに新しい発見、発掘をして、多くの感動を味わい、豊かな感性を養ってくれることを願う。

「ものより、思い出」 CMの受け売りですんません。



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2008.05.07 / Top↑
~ぷろろーぐ Ⅳ~

 昔、都があった街にすんでいたころの休日には、移動方法としては最も安上がりで、機能的だと思うバイクを駆って、できるだけ交通量の少ない北よりの道を走っていた。
(南よりは交通量が益々多くあまり行かなかった)
 この辺りでも一時間も走れば田舎は結構あるのだ。

 連休の時はユースホステルを利用して中部、東海、北陸、方面へ良く出かけた。秋から春に掛けては電車などを使っての移動となった。
 電車などの移動はつい欲張ってしまうわけではないが、どうしても窮屈なスケジュールになってしまう。
 地方のローカル線は本数も少なく、常に時刻表とにらめっことなり、分単位での乗り換え、移動が多かった。宿ももちろん予約しておかなければならない。そんな前準備もそれはそれで楽しいのだが、旅行途中で進路変更、宿変更、もちろん日程変更もできない。前準備したとおりの進路、宿、日程をつつがなくこなして無事に予定通り帰宅する。いわゆる旅行をしていた。

 そんなある日、乗り換えのために駅の跨線橋を小走りしていた時、花火大会のポスターが目に入った。同じポスターが何枚も貼られていて、走りながらでも今日がその日であることが分かった。

「花火、見たいなあ」 
 
 でもこのまま走って1番線に降りて、まもなく発車する列車に乗らないと今日の宿に辿りつけなくなる。でも目の前で打ち上げられる花火を見てみたい。
「1番線より○○行きの列車がまもなく発車いたします」
 無常なアナウンスが聞こえてきた。列車には間に合ったが、心ここにあらず。車内にも花火大会のポスターが吊り下がっていた。何で見に来ないんだよ。と言われているようだった。

 これを期に時間と日程にとらわれずに自由に旅がしたくなった。今日の宿は泊ろうと思った時に決める。今日は西か、東へ向かうのか、それはその日の朝に決める。そんな旅に出てしまったのが今ら二十二年前だった。
 全国を周り、なぜか東北の雪深い田舎に暮らしている。




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2008.05.03 / Top↑

~ぷろろーぐ Ⅲ~
 
 遠い昔に都があった、人口だけは政令指定の都会に住むことが好やなかっ
た僕は、なんとなく田舎に住みたいという願望が成人したころからあった。それは父親の実家のある山陰の小さな漁師町へ子供のころによく遊びに行ったことで芽生えたのかもしれない。

 目の前は海、後ろは山。決して高いわけではないから、子供でも簡単に登れる低い山々が連なり、西へも東へも隣の街へ行くにはその山を越えていかなければならない。
遊びに行くのはいつも夏休み、朝の早くから近くの神社へラジオ体操に行き、宿題を簡単に少しこなして、遊びはもっぱら海水浴やった。

 夜になると、人も車もまばらとなり、ネオンはもちろん無い。街灯もちらほらの真っ暗な世界となる。これが少年にとっては最悪のロケーションとなり、暗い部屋で一人寝ていると、窓横の木の上に何かいるんじゃないか、猫が屋根から屋根へ移る時の「パタッ」という音にビクリとして、あの網戸をスート開けて青白い顔をした少年が入ってくるんじゃないか、とさまざまなよからぬ創造力を膨らませてしまい、眠れぬ夜もしばしばあった。

 そんな時にかぎって夕飯後にスイカを食べ過ぎてトイレに行きたくなる。トイレは1階の一番奥にある。そこへたどり着くには、まず暗い階段を下りて、狭い廊下を超えて、居間を抜けて、また狭く暗い廊下を通りやっとの思いでトイレに着く。昼間の三倍は遠く感じたもんやった。

『なんで田舎の家はこんなに広いんや・・・』


 それでも、とにかく楽しかった、早く夏休みになってほしかった。親父の実家へ遊びに行くのがすごく待ち遠しく、できれば住みたいぐらいだった。
小学校に上がる前からひとり、祖母に預けられていたので、同年代の友達も数人いた。夏休み限定の友達である。

 成人してもそのころの想いが強烈に頭の中の隅々に残っていて、「隣はなにをする人ぞ」ではないが、人も、車もあまりにも多く、見渡す限りに家とビルばかりの都会から脱出したかった。



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2008.05.02 / Top↑
~ぷろろーぐ Ⅱ

 数十年前に近畿地方の、都があったところで生まれて、育だったけど、思うところ(おいおい触れていきたい)があって今は東北の雪深い田舎に住んでいる。
 もう、かれこれ20年になるかな。
 それで、正確な(?) 関西弁を忘れかけている。

 この地へ来たころは60歳以上の年配諸氏の話す言葉の大半は理解不能だった。
「いま、なんて言ったの」
と考えているうちに会話が進み、どんどん置いてけぼり状態に陥り、まったくわからなくなってしまう。
 極端な方言(標準的な日本語とは違う単語)は少ないと思うが、基本的に関西弁とはイントネーションが違うし、標準語を短縮したような単語が多く使われる。

 会話の端々に僕の名前が聞こえてきて、みなさんがにこやかに笑っている。どうも僕のことをネタに楽しく会話しているようだけれど、何の話で盛り上がっているのかわからない。
「んだか?」
「えっ…」
何を聞かれているのかわからないから、答えようがない。あっけにとられていると、
「わかんねぇべ。あなたの生まれたところは、雪が降りますか」
横から別の人が
「あのへんなばゆぎなふらねぇべ」(たぶんこんな感じ)
「あっ、え、降るよ。少しは」
「…もるが、いぺぇ、…もらねぇが」(こんな感じに聞こえた)
「えっ、なんですか」
「つもるか、いっぱい、つもらないか」
「あぁー、ほとんど積もりませんね。5センチも積もったら記録的やなぁ」
「なしてこんたやまおぐさきだなよ」(なぜこんな山奥に来たの)

 最近では関西弁と東北弁と標準語(このあたりの学校は標準語で授業をする)が入り混じってしまい、自分でも「何か変な言い回しやなあ・・・」と感じる時がある。要するに正確な関西弁を少し(少し?) 忘れているようだ。
 家の近所の人たち、学校の先生、子供の親たち、仕事場でも、みんな普段は東北弁を話す。もちろん細君も。
 今では無意識に方言、訛りが出てくるんやけど、主体はやっぱり関西弁をしゃべっている。そんなわけで、もし関西の人が呼んでくれはると、変な関西弁になっているかもしれませんな。


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2008.05.01 / Top↑

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