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 我が家の道路に面している部分は車庫も含めて、約十メートル少々。ぎゅっと押し固められた雪の塊を

『ママさんダンプ』(この辺りでは手押しの雪寄せ道具を『ママさんダンプ』と言う名前で売っている。昨年、新しいのを買いにホームセンターに行ったら、『パパさんダンプを発見。『ママさんダンプ』より少し大きいものになっていた)
                              ダンプ


で邪魔にならないところへ寄せていく。軽く、二,三十分はかかる。ぎゅっと押し固められた雪の塊はとても重いから、大変な重労働である。朝だけではない、日中も雪は降る。仕事から帰ってくれば、朝と同じように玄関前と車庫前には、ぎゅっと押し固められた雪の塊が積まれている。このままでは車も、人も入れないから、車を道路脇に一旦止めて、朝と同様に

『ママさんダンプ』

の登場となる。その時にも雪が降っている。降っているだけならまだなんとか大丈夫、吹雪いている時もしばしばである。
 こんな日が少なくとも一月、二月のほとんど、毎日のように繰り返される。今年は自治体の予算もあってか、夜はブルが来ない日が増えたので、一日一回朝だけでの日が多かったが、その分、翌朝がドット増えることになる。

 一月も中旬を過ぎれば、今までに寄せた雪と、新たに降った雪で家の周りも雪でいっぱいになる。小さな雪の滑り台となった上を、ママさんダンプを押して登り、家の裏の方へ運ばなければならない。他に寄せるところがなくなってしまったからだ。
 しっかり固まってない上を歩くと、片足だけが『ズボツ』と大きな穴を開けて雪の中へ入ってしまう。
                                雪


 ひと冬終われば、ひじが腱鞘炎になったこともある。

 この雪寄せ作業はオヤジ(私のこと)の仕事。冬はこの仕事があるから、少々家の中でゴロゴロしていても、奥方には文句を言われないですむ。

 ところで、雪国のサラリーマンの出で立ちをご存知か。公務員を含め、いわゆる会社員は、都会と同様にスーツにネクタイ姿で出勤する。しかし、上記のごとく、家を一歩出れば一面の雪景色、スーツといえども足元は長靴を履くのである。スーツに長靴という姿が、創造できますか。都会の人たちから見れば、かなりダサイのではないだろうか。
「えっ、なに?長靴?」
と思ったが、雪が積もった道を革靴では歩けない。歩くどころか、一歩踏み出せば『すってんころリン』と転んでしまう。たとえ転ばずに歩けたとしても、降り続く雪道を歩けば、道路に積もった雪を踏みしめるたびに、靴の中に雪が入ってきて、五分も歩けば靴下はビショビショにぬれて、足は冷たくなる。

 カッコなんて関係ない、冬の必需品は長靴である。

つづく




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2008.06.02 / Top↑


 雪との戦いはこれで半分。まだまだこれからが本当の戦いの始まりとなる。
 一月の下旬ともなると、家の屋根の上には一メートル以上の積雪がある。古い家はこのまま放置しておくと、つぶれてしまう。つぶれないまでも、家の中のドアや扉の開け閉めがスムーズに行かなくなる。全国ニュースでもどこかの体育館が、積雪によって屋根が崩壊したことを伝えていた。毎年、古くなった空き家や、小屋などが押しつぶされた話は良く聞く。
 どうすればつぶれないか。下ろすしかない。雪ようのスコップを片手に屋根の上に上がり、自分の胸ほどもある雪をかき分けて、軒の方から順に

『ザッ、ザッ、ホイ。ザッ、ザッ、ホイ。ザッ、ザッ、ホイ。』

縦と横に切れ目を入れる。これが『ザッ、ザッ、』スコップ一つ分の四角い型にして『ホイ!』と投げて下ろす。豆腐を賽の目に一つずつ切るように、ただ黙々と

『ザッ、ザッ、ホイ。ザッ、ザッ、ホイ。ザッ、ザッ、ホイ。』

 あまり大きく四角にすると、『ホイ。』がたいへんに重く、すぐに腰に違和感が走る。そうかと言って小さすぎると、はかどらない。適当な大きさにするには長年の経験のみぞ知る。(二十年にしてようやく、雪下ろしのやり方が分かってきたように思う)四十センチメートル四方ぐらいが適当なところだろか。
 軒に近いところをやる時は、『ホイ。』はまだ楽だが、軒から遠くなると、『ホイ。』も遠くへ投げてやらないと下へは落ちてゆかず、軒の辺りに残ってしまい、二度手間になってしまう。
 三十分も続ければ、まず腰に違和感が走る。続いて背中や、腕にもそれが伝わってくる。二、三人で話しをしながらやれば、まだ気がまぎれるのだが、一人での作業の時は飽きてくる。
 家の前の雪寄せ同様に雪が降っているときに、やらざるを得ない時もある。

 一つの雪の塊が四十センチメートル四方ぐらいということは、お気付きの方もいらっしゃるだろうか、雪の高さは私の胸の辺りまである。一メートルは有にあるから、二段、時には三段に分けて投げ捨てることとなる。
 今冬は私ひとりで、まる二日を掛けて下ろし終えた。
 土、日の休みは雪下ろしだけで終わってしまった。

 下ろす雪は我が家だけではない。奥方の実家へ手伝い、会社の倉庫の雪下ろしもある。この倉庫が三、四箇所もあるし、ひと通り終わったころには、我が家の二回目が回ってきたりすることもある。とにかく一月、二月は朝から夜まで雪と戦っているようなものだ。

つづく


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2008.06.04 / Top↑
 年末のドラマを見ていると、
「あっ、雪が降ってきたわ」
「ほんとだぁ」
「きれいだねぇ」
などと言いながら女優さんがくるくると回りながら喜び、はしゃいでいる。その時のBGMは山下達郎の年末定番ソング

『クリスマスイヴ』

 年末恒例の大イベントの二大アイテムである。

 僕も十年前まではそう思っていた。雪国の人たちも絶賛するほど美しい。その風景だけはとても綺麗だ。
            雪景
 
                                    雪景2
  (クリックすると大きくなります)

 今の地に住むようになった頃は、雪が降ってくるのが楽しみで、待ち遠しくて、首を長くしていた。一寸先が見えなくなるくらいに激しく降って来たりすると、ワクワク、ドキドキしながら、
「どれくらい積もったら、屋根の雪下ろしができるのかな」
と屋根に上がる日を楽しみにしていた。
                        ゆき屋根
(すこし分かりにくいですが、屋根の上です)

 今から思えば、不謹慎なことを心の中でニヤニヤとしながら考えていた。仕事中に降り出せば、
「わっ、雪が降ってきた。わあ」
一人大きな声で喜んでいた、他の人たちの白くにらみつけるような視線などまったく気にせずに、
「綺麗だ、美しい、素晴らしい・・・」
おおいにはしゃいでいた。
 音もなくシンシンと降り積もる雪。あっという間に一面が銀世界となり、全てのものを真っ白にしてしまう。翌朝に晴れると、山や、木々に着雪した姿は誠に美しく、なにもかもが朝日に照らされてキラキラと輝き、花も葉もない木々がまるで満開の輝く白い花をつけたように美しい。いつまで見ていてもあきない。
 気温と、風速、風力という自然の画家が山や、木々のキャンパスに雪の白だけで造りだした芸術である。風の無いシンシンと降り続く雪のときと、吹雪いた時の姿とは違う別のものを造りだしてくれる。時には川の流れに純粋に逆らわずに、水のない所にだけ雪の白を置き、現代彫刻のような美を完成させ、常に目を奪われる。

 十年ほど前までは本当に不謹慎なやつだった。雪が降ってくるのを見て大喜びしていたのだから。しかし、今では
「もう雪なんか降らなくてもいいよ、雪の馬鹿やろう」
と怒鳴りたくなってくるほど、降る、降る、降る。どこの空の倉庫に、こんなに多くの雪が溜まっているのか、どんどん降ってくる。見る見る積もっていくのである。もう、こりごりである。降るだけなら良いのだが、雪というやつは降った後は積もるので、厄介なのだ。
 国道に降り積もり道路脇に寄せられて山となった塊は、重機によってダンプに積まれ、雪捨て場へと運ばれる。それを見るたびに
「あれって、融ければ、ダンプには積めない、ただの水になるんだよなあ」
と思う。

つづく




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2008.06.06 / Top↑





 昔、都のあったところに住んでいたころには、桜というものにそんなに感動を憶えなかった。なんとなく、入学式のシーズンに咲く花、ぐらいにしか思っていなかった。
 でも、こんな雪との戦いがつづく、北国に住むようになってからは、特別な花として、一年の区切りの花なんだと言う意識が出てきた。

 三月も下旬になると、雪の降る日はほとんどなく、少しずつ雪が融けて、窓から外を歩く人が見えるようになる。雪の塊が小さく低くなって、汚れた白になってくる。中国大陸から飛んでくる黄砂によって、黄色くなることもある。少しずつだけれども、春が近づいてきている。ようやく、戦いが終わろうとしている。

 四月になっても雪が降る日はあるが、ママさんダンプの出動はほとんどなくなり、田畑のあちらこちらに土が見えてくる。そんな雪がなくなった土のところに、バッケ(ふきのとう)が顔を出すようになってくる。
 家の周りの雪も少しずつ融けて少なくなってくると、雪が降る前に飛んできたゴミが、出てくる。意外にこれが多いのだ。(余談であるが、スキー場のリフトの下の雪が融けると、いろんなものが落ちているらしい。一番多いのは、たばこの吸殻だそうだ)

 そして、完全に田畑の雪がなくなり(山にはまだ雪が残っている)陽も明るく春めいて来るころ、四月の二十日ごろになってようやく桜の便りが聞こえてくる。例年だと二十九日が満開の予定日なのだ。

「春だ。ようやく春が来た」

その満開の桜の下で、冬の戦いを終えて、ようやく来た春を喜び、これからの農作業の前に酒宴を盛大に行うのだ。
 都市の、雪があまり降らない土地の桜の花見とは、すこし感じ方が違うと思う。最近、この地の人たちが桜の花が咲くことを、心待ちにしている意味が、ようやくわかってきたような気がする。今よりも雪が多かった昔に、今よりも除雪内容もよくなかった時代を、活きてこられた先輩諸氏は、特にそう言う気持ちが大きいようだ。
 
「春(とても待ち遠しいもの)」


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2008.06.09 / Top↑


 「東名高速○○IC付近で40km、東北新幹線下りは200%の乗車率」
 夏のお盆が近づくとこんなニュースが毎日、毎回流れてくる。毎年恒例、夏の民族大移動である。
 夏が近づくとこんなことが思いださせる。

 40kmも渋滞していると一番先頭の人はなにをしているのだろう、さっさと行けばよいのになどと、状況も知らずに先頭にいる人を悪者にしてしまう。前も後ろも横も車に囲まれてイライラして、隣の車線の車が少し進みだすと損をしたような気になり、またイライラする。逆に自分の車線が進み出すと得をしたような気分になり、少し気がまぎれる。

 親父の故郷に家族で帰省することが、子供の頃の夏休み一大イベントであった。帰省する3週間前に準備が始まる。時刻表と睨めっこをしてどの特急列車(その当時は非電化路線でした)に乗って行くか、第一希望の指定席切符が取れない時は第二希望をどれにするか、第三希望は、帰りの第一希望はどうする。座席に座って行くためには、指定席切符を前もって手に入れておかないと、3時間の旅は通勤電車並の混雑の中を、重い荷物と共に立ち続けることになる。

 往きの第三希望までを決めて、2週間前の午前4時半、むかし都のあった市の中心駅行きの列車でいざ出陣。この列車で行くのが一番早くその駅につける。駅のホームに入ると完全に止まる前に、手動のドアを開き飛び降りて「みどりの窓口」目指してまっしぐらに走る。朝の5時である。

 すでに多くの人達が列をつくり思い思いに時間をつぶしている。新幹線の上りの列、下りの列。在来線の上り、下りの列。在来線の下りの最後尾はどこなのか、先頭付近の看板を確認して最後尾へと進み並ぶ。いまから4時間ただひたすらこの場所で待つ。僕一人で。4時間の時を、本を読んだり、人間ウオッチングしたり、ボーッとしながら時計と睨めっこする。

 発売開始30分前になると、番号をマジックで手書きされた申し込み用紙が渡される。前もって希望の列車と枚数を書いておく。
「58番、これなら第一希望も大丈夫かな」
 9時になると十数台の券売コンピューターを弾く音が、けたたましく窓口から聞こえてくる。少しずつ列が前に動き出し、いよいよ僕の番が来る。申し込み用紙を係りに見せると同時に、
「これはもう満席ですね」
 発売開始から40分ほどしか時間が過ぎていないのに、もう満席なのかよ。
「全国のコンピューターが一斉に検索しますから、人気の列車はすぐに満席になります、第二希望から検索しますね」
ガックリ。

 かろうじて第二希望は確保した。しかし、戦いはまだ終わっていない。4日後に帰りの切符を買いに、再びその駅に出陣するのである。帰りも第二希望しか取れなかった。

「お盆は実家に帰るの」とよく聞かれる。
「いまの季節は毎日35℃もあるので、帰りません。交通費も高いしね」
 いかにも日本的なお盆の帰省民族大移動は、とても大変な夏休み大イベントなのである。


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2008.06.13 / Top↑
チャレンジ「小説のような・・・」

 『旅のはじまり 草創期』は①~⑤のような話です。今回からは、『思春期』 (ブログを始めて、1ヶ月少々。今後の話の展開に行き詰っていましたが、今日、思いつきました)に入ろうと思います。
 実は、「国内一人旅」のランキングに参加していますが。中学、高校時代はほとんど一人では旅をしていないのですが、いずれ『青春期(高校卒業後)』(これも、今日思いつきました)にはずっと一人旅です。このまま参加させていただきたいと思います。




 昔、都のあったところには、人口は百五十万人を超え、政令指定都市としていわゆる都会といわれているところだ。でもその多くは、中心部より離れたところに集まり、ドーナツ化現象といわれる、都会特有の人口分布で、昔からの都といわれていた地域には昼間の人口だけ多く、そこに暮らす人は少なかった。一部には統廃合が行われ、一学年に一クラスなどという、田舎の学校のようなところもあったようだ。

「おれ、飛沢て言うねん。よろしく」
窓側の席の前から二番目に座って、上半身だけを後ろ向きにして、いきなり話かけてきた。
「あっ、そうかあ」
[U小学校なんやけど、あんたはどこや]
「えっ、おれもやけど、六組やけど、お前みたいなんしらんなあ」
「そうかあ、名前はなんて言うの」
「夏樹」
「おれは、五年の時に転校してきて、二組やったから、わからへんかもなあ」
 三つの小学校が集まり、一つの中学校になった。U小学校だけでも六クラスもあった。H中学校の一年生は十一組まである、市内でも有数のマンモス校だ。
 新一年生だから席順は五十音順。だから、飛沢の後ろは夏樹だった。
 突然、うしろの席から、
「おれ、野々口、T小学校やねん。夏樹って一、二年のときから六組とちゃうか」
「あっ野々口て、あの野々口かぁ、どっかで見たことある思たんや」

 U小学校では夏樹たちが三年生までは九組まであった。学校の周りの田畑が次々に宅地化されて、人口が増えてきた。もちろん子供の数も増え続けていたので、教室が足りなくなってきていた。そこで、一部の地域を分割して、新しい学校を造り、U小学校の人数を減らしたのだ。そのために野々口は四年生からはT小学校に移った。
 それでも夏樹が六年生の時の一年生は、十四組までふくれあがり、校庭にはその場しのぎのプレハブの教室が立ち並び、運動場はかなり狭くなったのを覚えている。そのため運動会は各学年をクラス別に二つに分け、さらに赤、白、青の三組に分けて、二日間にわたり行われていた。
 生徒の半分は運動会、残り半分はいつも通りの授業をしていた、学校中に運動会の定番音楽が響き渡る中で、半分の生徒は普通に授業をしていた。
 ちなみに中学校も夏樹たちが卒業後に、分割された。いやその前にU小学校がもう一回分割された。




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2008.06.16 / Top↑
「野々口って三年の時は四組やったなあ。おれは六年間ずっと六組やった」
「ほんで、四年からはT小や、家から近こうなったけど、友達が減ったさかいなあ」
「そしたら、おれが転校してくる前は、もっと人が多かったんや」
飛沢が話しかけてきた。

飛沢の前の学校は市内の中心部で、オフィスビルに囲まれ,明治のころに開校した古い学校で、卒業生には有名人も数人いるようだ。
「六組でも多いと思ったのに、九組もあったやなんて、すごいなあ」
飛沢は興味津々に二人から話を聞きだそうとしていた。
「そやなあ、同じ学年でも、おんなじクラスになったことのないやつも、いっぱいいるしなあ。名前が分からんのもいっぱいいるなあ」

 夏樹だけが六年間六組だったことに、少しだけコンプレックスを感じていた。
「なんかおれだけがずっと六組やったから、クラス替えのたんびにみんながどっかへ行ってしまうような思いになって、ちょっと寂しかった」
「おれらかて、四年からは三クラスになったから、すごく寂しい気持ちになったんや。早よう、中学校になったら、また、みんなに会えると思うて楽しみにしてた」
野々口が割って入った。
「おれが、転校してきたころは、ものすごく面白かった。今までは一クラスしかなかったし、急に人が増えて楽しかった」

 隣の町から、小学校入学の時に市内の学校に転校してきた飛沢には、本当に親しい友人はなく、U小学校に来た時は人がすごく多かったから、ここなら多くの友達ができると信じ、隣のクラス、その隣のクラスまで出かけては、声をかけて友達つくりに飛回っていた。おかけでかなりの人数の親しい友人ができた。二組だった飛沢は、二組はもちろん、三組、四組と順に活動範囲を広げていった。夏樹がいる六組までは足を運ぶ前に、多くの友人ができた。

「ほとんど初対面同士がこうやって親しくなったんやから、さっそく、今日の放課後に集まって遊ぼうよ」
飛沢が切り出した。



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2008.06.18 / Top↑

 飛沢、夏樹、野々口は、たまたま席が近かっただけだけれど、入学式の次の日からは旧知の友のように、テレビの番組のこと、アイドルのこと、部活のこと、授業のこと、そして女の子のことなどなど、他愛無い話に夢中になっていた。
 四月の末ごろには部活動に入るものは、みな入部届けを出した。野々口はサッカー部に入った。
 飛沢、夏樹、二人の部活動は帰宅部、もしくは遊部だった。ほとんど毎日のように二人で帰宅部活動をしていた。
 こうして夏樹と飛沢は運命的な出会いをして、ここから深み(?)にはまっていくこととなる。

 その当時の中学生にとって憧れのアイテムと言えば「ラジカセ」である。今では数千円でステレオのCDラジカセが売られているが、数十年前の中学生にとってのラジカセは、なかなか手には入りにくい高級品として、みなが憧れていた。それもステレオではなかった。

 その憧れの一品を飛沢が持っていた。それを聞きに行くのが目あてで、夏樹は彼の家に足しげく通った。
 そして、ビートルズを筆頭に洋楽にはまり、さまざまな音楽を聴くようになり、その延長として、ステレオ機材にもはまっていった。
 今は、ミニコンポが主流のようだが、その当時はアンプ、レコードプレイヤー、スピーカーなどを全て単品で購入して、アンプを中心に組み合わせて、音楽を聴く。ステレオといえばこのシステムコンポのことを言った。
 買うことなど夢のまた夢。電気店に行ってカタログを集めて、将来のシステムコンポ生活を構築していた。

 のちにレコードプレイヤーを買ったときに
「なんで音も出えへんプレイヤーなんか買うてんねん」
と、夏樹のオヤジはぼやいていた。これ一台で今のミニコンポを二台買っても、お釣りがくるほどの高価な品物だった。

 レンタルレコード店が巷に出始める十数年前の時代、レコードもそんなに多くは持っていなっかた。クラスの誰かがレコードを買えば、又貸しの連鎖が始まり、持ち主に帰ってくるころには、傷だらけとなった。数箇所の針飛びは当たり前となり、時には中に入っているライターと呼ばれる、アーティストの説明書のようなものが紛失していることもしばしばだった。(そういえば、CDにはそんなものはすくないなあ)

 飛沢の親父さんがステレオでテープに録音をした「ザ・ビートルズ 1926~1966」前期ヒット曲集、いわゆる『アカ版』の、一曲目、「ラブ・ミー・ドゥ」が初めて聴いたの「ビートルズ」の曲だった。
 「ビートルズ」の曲はとても新鮮で、英語の歌詞の意味などわかるはずは無いけれど、なんとなくいいなあ、心地よいなあと感じて、はまっていった。
 中学生になって初めて英語を習い、その一学期に聞いた「ビートルズ」の、聞こえてきた言葉を聞こえてきたとおりに、少し習った英語の知識を最大限に活用して、英語のように無茶苦茶に怒鳴り、わめくように、二人で歌っていた。(そう歌っているようにしか聞こえなかった)


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2008.06.21 / Top↑


 夏樹にとって飛沢が持っているものの中でもう一つ、憧れのアイテムがあった。自転車である。十段変則、ドロップハンドル、車体は軽合金製。小学校のころはウインカー付のセミドロップハンドルの自転車が憧れの一品だったが、中学生になり、少しだけ大人に近づいたのだろう、飾りはなどいっさいついていない、本格的な自転車に目が向くようになった。
 夏樹も飾りはないが、五段変則のセミドロップハンドルの自転車を買ってもらい、どこへ行くのもこの自転車で出かけていった。半年後には近くの自転車店で見つけた、中古のドロップハンドルに小遣いを貯めて付け替えた。

 夏樹と飛沢の二人は、休みになると地図と,にぎりめしを持って遠方へと出かけていった。
「明日の日曜日はどこへ行こうか」
「そやなあ、この道をずっと北へ、行けるところまで行ってみようか」
「峠を越えて、となりの町まで行けたら、面白いなあ」
「昼までにこの分岐のところまで行けたら、このままぐるっと回って、こっちの国道まで来て帰ってこようか」
「ここまでが四十キロかあ、いつもより早い時間に出かけんと、昼までには着かれへんのとちゃうか」
「よし、明日は六時に出発しょうかあ」
「オッケー」

 市内はもとより、近隣町村まで足を伸ばし、できるだけ往きの道とは別の道で帰ってくるように地図とにらめっこしていた。

 飛沢の自転車と夏樹の自転車の明らかな格差があらわれるのは、登り坂の時だ。夏樹が自転車に乗るのをあきらめて押していく登り坂でも、飛沢はゆっくりだけれども、自転車に乗って登っていく。恐るべし十段変則の威力。

 飛沢は相変わらず、新しい友達を作りに走り回っていた。小学校のころからの友達や、多くの新しい同級生たちから慕われていた。それなのに、やすみの度に二人で遠方へ出かけ、毎日のように二人で帰宅部活動をしてくれた。
 サイクリング部があったら二人とも入部したんだけれど。



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2008.06.24 / Top↑
 二年生になるとクラス替えがあり、飛沢と夏樹は別のクラスになった、校舎の棟も違い、帰宅部活動は少しおろそかになってしまった。回数は減ってしまったが、サイクリング同好会は健在である。
 
[ちはぁーす」(こんにちはーすの短縮形)
「一年坊、声が小さいなあ」
「ちはぁーーす」
「よおーし」
 サッカー部へ入った野々口が一年生の後輩に、挨拶の仕方が悪いことを、少し大きな声で叫んでいた。
「お前も偉くなったなあ」
「一年と二年では、天と地ぐらい違うさかいなあ。一年間、先輩になにを言われても我慢して、頑張ってきたんやから」
 とにかく上下関係が厳しい中学校で、野球部とサッカー部は特に先輩たちが威張っていた。素行もあまりよろしくはなかった。態度は他の部より、かなり大きかったが、部としての成績はあまりかんばしくなかったようだ。
「あんまり、下級生をいじめるなよ」
「いじめてんのと、ちゃうでぇ。礼儀を教えてんのやぁ」
「ほぉー。もうすぐ、大会やろ、がんばれよ」
「おぉ」
 野々口と夏樹も別のクラスになって、話すことが少なくなっていた。

「おう、おはよう」
「おう」
 二年生になって同じクラスになった赤川だ。かなりの鉄道マニアで、鉄道のことはとにかく詳しいのである。
 夏樹も蒸気機関車のことが好きで、少しは雑誌なども持っていたが、赤川とは比べものにならない知識の乏しさに恥ずかしくなり、赤川に感服してしまった。
 飛沢とはまた、違った形で興味を持った友となった。




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2008.06.27 / Top↑





「蒸気を見に、梅小路にいかへんか」
「行こかあ」
 梅小路とは京都にある、『梅小路蒸気機関車館』のことである。京都駅の西方にある機関区(蒸気機関車などを駐機させるところ)に動態保存(実際に動かせる状態で保存)静態保存(動かすことはできない)の蒸気機関車十数台を展示しているSLのテーマパークである。
 今で言うところの鉄道オタク「鉄チャン」の聖地のようなところだ。

 関西周辺では山陰本線が最後のSL走行区間であったと思う。(たぶん)それも夏樹たちが小学校六年生の時に廃止されてしまった。梅小路に行かないとSLを見ることはできなくなってしまった。(北海道など、一部にはまだ走っていた)

 赤川と夏樹はオヤジのカメラを持ち出し、近隣の国鉄に乗り、日帰り圏へミニ旅行をたびたび行っていた。どちらかというと、電車などの新しいものにはあまり興味がなく、SLを筆頭に古いものを追いかけていた。『ローカル線日帰り旅』といったところだろうか。

 小さな駅に降り立ち、駅周辺で思い思いの撮影ポイントを探し、一時間に数本しか来ない列車を待ち続け、鉄道雑誌に載っているようなショットを狙って、カメラを構える。相手は動くものだから、一回に切れるシャッターはせいぜい三度ぐらい。
 一本の列車が行ってしまえば、静寂の時がくるのだが、突然、けたたましい音とともに貨物列車が通り過ぎて行く。貨物列車は時刻表に載っていないので、不意をつかれてしまい、シャッターチャンスを逃してしまう。

「くっそう、貨物まで載ってる時刻表って売ってへんかなあ」

 『ローカル線日帰り旅』と平行してカメラを持ち出しよく行ったのが、廃止される市電の撮影だった。当時、市内を市電があちらこちらに走っていたが、モータリーゼイションの波には勝てず、他の都市同様に路面電車は邪魔者扱いされ、廃止への方向が決定付けられていた。
 平成の世の中では、エコ交通として、もてはやされたに違いない。時すでに遅し、残しておけばよかったのに、と思う。
 市内の各地を回り、さまざまな角度から市電をカメラに収めていた。

 さながら『鉄道研究会(鉄研)』の活動である。このときは会員二人だけれど。
 


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2008.06.30 / Top↑

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